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市民の時代

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 まもなく市制を施行しようとする札幌の街を、いささか観光客向に紹介した一文に、「北海道の首都として自然の形勝を占め、区画井然として碁局の如く、配するに柳、楓、アカシヤ等の街路樹を以て、北米都市の清新を聯想せしむ……人口十一万六千二百余人を包容する大都市となり、教育地として、工業地として、本邦有数の地歩を占むるに至れり」(樽新 大11・7・12)とある。この一一万人の住民はまだ〝区民〟であって〝市民〟でなかった。
 日本〝国民〟はいずれかの市町村民であるのに、札幌の住民は二四年間〝区民〟と呼ばれ、市民でも町村民でもない特別自治制のもとで暮らしてきた。区政を司る人はなんとか区を市に変え、〝区民〟を〝市民〟に変えたいと腐心しつづけた結果、札幌区に市制が施行され〝札幌市民〟が誕生したのである。時の札幌控訴院検事長中川一介は、この努力をみて「札幌の地は商業に偏せず工業に偏せず、自ら全道の指導者たるべき位置の人々の集まれる町だからして、自ら当道否全国の将来に向って少ならざる天分を持ってる」と評し、さらに「現状に満足せぬ有為の人の集まりで、自力を主義として相当苦労を積んでる人の集まり」だとみた(北タイ 大11・7・3)。
 しかし、市制施行を祝う記念行事で、札幌市民には自治意識などまったくないではないか、どこにそんなものがあるのかと発言する代議士がいるかと思えば、文化を創造することに無縁な住人達であり、市民になったのだからしっかりしろと講演する学者もいた。まだ市長が決まる前のことだったから、市長代理者はそれら辛口の批評を意識してか、札幌には特有の〝市風〟があるのだと斬り返してみたものの、市役所発足にあたり外部からの移入人事をはかって部下の信頼を失い、新市長が決まらぬうちに代理の地位を棄ててしまった。これらの意見と実態を史料にもとづき検証し、その歴史的意義を追求するために本巻が編まれたのである。
 『市史』第三巻に続く本巻は、〝区民〟が〝市民〟となって新しい街づくりに汗した明暗の二三年間を概括する。すなわち大正十一年(一九二二)八月一日市制を施行してから、太平洋戦争の終結が公表される昭和二十年(一九四五)八月十五日までを一時代ととらえ、あしかけ二四年の歴史を本巻の主要な内容とした。しかし事項によって市制以前の経緯に及ぶところがあることをおことわりしておきたい。本市史の時代区分が自治制度の変遷に視点がかかりすぎているため、前巻において第一次世界大戦の影響をもって切れ目とした事項との間に空白時を生じかねない。そうした事項の一部について継続性をもたせ、両巻の断絶を埋めるよう配慮したためである。
 第三巻で扱った二二年一〇カ月の区制期に中間時、折り返し点がみられたように、本巻の時代にも同様のことが言えそうである。それは昭和十二年の日中戦争勃発を前後として、行財政面で大きな変化が生じ、それが生産流通を規制し、市民生活に転機をもたらした。したがって本時代を前後期に二区分し、その要点を次項にスケッチしたが、前期は満州事変をメルクマールに分けることができ、後期は太平洋戦争開戦前後でさらに分けることも可能であろう。とすれば、この時代は第一次世界大戦後、徐々に色彩を薄めてきた「内国植民地」的性格を洗い流し、新たに展開した資本主義社会の行き詰まりを打開するべく、事変戦争を軸に市民生活が営まれたことになる。
 その実態を二章から一〇章にわけて記述した。すなわち、行財政とそれにもとづき進められた都市基盤の整備事業を二、三章で、生産流通金融にかかわる経済構造の分析を四、五章で、市民生活の実相を七、八、九、一〇章とし、特に都市と農村の新しい動向の中で生じる社会問題を六章にまとめた。いずれの章も前巻の近代都市の形成という視点をふまえて、各課題が本時代でいかに展開転換したかを解明しようとしたものであるが、不十分な分析におわったことは否めない。

写真-1 昭和11年頃の札幌市街(大通と駅前通)