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道都意識

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 日本の中の一地方都市に発展した札幌市に、どのような性格を見出すことができるのだろうか。それを四つの面から考えてみたい。まず道都意識があげられよう。
 本章の最初に紹介した一文に、札幌を「北海道の首都」と記しており、市民の多くはこの時代、自分の住む街を〝道都〟であると思っていた。そうした意識が芽ばえるのは明治初期にさかのぼり、北海道開拓を推進するために中央政府が設置した開拓使の本庁が札幌にできて以来のことで、街づくりが始まる以前の大府構想にまで言及できぬでもない。しかし、明治三十二年の区制施行以前は、住民が道都でありたいという願いを抱いていたにすぎず、外部からそうした実態をともなう地域と評価されることはなかった。道都なるものは、いつ、どこに移転してしまうかわからぬ状況にあったからである。
 区制施行後、条件つきの自治であっても、それを手にした住民たちは、道都にするための努力をはらった。道庁の札幌永続立地を勝ち取った住民の自信は、この地を道都であると断言してはばからなくなった。しかし、外部は必ずしも承認したわけではない。行政の中心に位置づいただけで、政治力からみれば歴史的にも函館が道都であるとした。また経済力では小樽が実権を握り、札幌はその傘の下で小商いをしているにすぎないと見なされ、新興旭川は地理的に北海道の中心であり、離宮予定地の軍都であると自認していた。

写真-4 北海道庁(昭和11年頃)

 そして市制施行後、内外の見方の差が縮まっていくところに時代の変化をみることができよう。その要因はどこに求められるのか。第一に全道もしくは道内広域を管轄する行政司法等の官公署が多く札幌に所在することがあげられる。これをなしとげたのは区制期の人たちの意気込みによるところが大きい。したがって本時代の前期はそれらを継承していたにすぎないが、後期になると社会情勢の変化により急増し、行政の中心地としての役割は一層強化された。
 第二は官公署とそれに関わる会社団体の存在が俸給生活者の多い街を形づくり、社会の近代化を進める先導的構造を備えるにいたったことがあげられる。市役所調査による昭和八年の戸口統計は三万五四二九戸、一八万四一三人であるが、現住調査(各戸に戸標をつけ、そこの住居状態を確認する調査で、昭和二年現勢調査の名で開始した)によると、三万六八〇一戸、三万五二七八世帯、一七万七四七七人である。家はあっても住人がいないもの、住み込み人のいない事務所、一軒に同居や間借世帯のある家などとともに、有職者を表2の項目に分類して調査した。これによると市内の有職者は四万四九九七人で、その二六・〇パーセントにあたる一万一六九六人を俸給生活者としている。俸給生活者のうち六八・〇パーセントの七九五九人が官吏公吏だったというから、札幌に官公署が多く所在し、それが道内では特殊な住民構造となってあらわれ、一次産業や小規模商業を主体とする市町村と異なる環境を生み出したのである。
表-2 昭和8年有職者数
 
俸給生活者
 官吏,公吏(含雇傭員)7,640人319人7,959人
 銀行,会社員(含使用人)2,333 129 2,462 
 その他1,165 110 1,275 
 小計11,138 558 11,696 
俸給生活者以外の有職者
 物品販売業主5,328 234 5,562 
  同 従業員2,128 230  2,358 
 その他有職者12,311 4,133 16,444 
  同 従業員1,660 1,355  3,015 
 日傭4,057 603  4,660 
 その他 906 356  1,262 
 小計26,390 6,911 33,301 
合計37,528 7,469 44,997 
札幌市事務報告』(昭8)より作成。

 第三はこれら有職者を中心にした階層分化が進んだことに注目したい。表2の「俸給生活者以外の有職者」は実に七四・〇パーセントを占めている。その中には販売業主の項があり、大中商店主に含まれる人もいるだろうが、多くは個人営業ないし家族労働か一、二人の手伝人による屋台や小さな店舗の主人であったと思われる。これらの有職者と諸々の働手があわさって、札幌のいわゆる旧中間層と労働者層を形成していたことになる。俸給生活者の大半はサラリーマン層にあたり、これがいわゆる新中間層として定着し、一部の高級官公吏、企業経営者等がインテリ層、ないし知識層と呼ばれる階層に該当するであろう。これを有職者の約一割と仮定すれば四五〇〇人ほどの数になる。こうした試算からこの時代の札幌は、七割の労働者、二割のサラリーマン、一割のインテリをもって成り立っていたとおおまかに言えそうである。新中間層の登場に象徴されるこうした社会の出現は東京の縮図とみてよい。この階層分化は市会議員選挙をはじめ衆議道議選に直接影響を及ぼし、札幌の文化発展にかかわることでもあった。
 第四として地方自治のあり方が道都意識の外部変化と連動したと考えられる。道会議事堂はその開設以来札幌に所在し、会議ごとに全道の議員が札幌に集まってきた。自治権の拡張は道会の発展につながり、それがまた札幌を人や物の集散地に強化していったであろう。しかし、札幌市会の機能や市民の自治観が全道市町村の模範たり得たというのではない。表1によれば、昭和十九年の札幌市人口は全道の六・九パーセントであるが、市部(一〇市)人口では二一・九パーセントを占めた。全道増加人口の一〇・五パーセントを札幌が吸収し、現市域でみれば一三・〇パーセントが札幌周辺に集中しだしたのである。こうした人口の札幌集中の始まりと自治の動向は不可分である。これらの複合的感覚が札幌道都意識となっていったと思われる。