会議は大正七年八月三十一日から九月五日まで行われ、四〇を上回る協議題が出されたが、ここで阿部区長は九月三日になって思いがけない追加議題を提出した。「北海道各区に市制を施行せられんことを、其筋へ建議せんとす」ることを市区長会として決議したいというもので、その理由を次のように述べている。
現在、北海道各区は其文化の程度、内地各市に比し毫も遜色なきに至れるを以て、特に現行特別制を継続するの必要を認めざるによる。
(樽新 大7・9・4)
この議題は九月五日の最終日に協議された。那覇市長は札幌区の提案に賛同し、あわせて沖縄県の区にも市制が施行されるよう求め、これを受けて青森市長が、札幌区提出の文案に沖縄県を加える修正動議を出し、宇都宮市長、米沢市長、京都市長等の賛成発言があって、修正案が可決成立した。この場においても、函館区長は札幌区の提案に必ずしも賛成せず、「市来旭川と、渋谷函館の小競合」(北タイ 大7・9・6)となり、運動の難しいことを暗示していた。
阿部区長は区制の改正による市制ではなく、府県と同一の市制を北海道の区に適用するよう求め、全国市長の賛同と支援を獲得したのだった。奇抜にさえ思えるこの提案は、前後の経緯をみると周到な読みに基づく計画の遂行であったことがわかる。事前に市長達に区内を十分視察させ、札幌の発達の状況を理解させた上であり、区制を改正したり廃止して新しい制度をつくるのではなく、現市長がその制度に則し発言力の及ぶ方法に解決の糸口を求めたこと、道内の区の思惑や道庁との調整を必要としない場を選び、しかも会場区であるから札幌区長が議長役を務め、議事を有利に進めることができる立場を活用しての提案であった。
さらに、もう一つ阿部区長の深慮が巡らされていたように思う。市区長会議で札幌区の議題が協議され、翌日の新聞紙面を飾ったその日に、憲政会総裁加藤高明をはじめ、浜口雄幸、安達謙蔵、関和知等幹部一行が大挙して札幌に到着し、憲政会北海道支部大会の開催に備えた。
「庶政を更張し、綱紀を振作し、地方自治の粛清を期す」という一項を綱領に掲げ憲政会が発足したのは大正五年(一九一六)十月十日であった。これに先立ち、同志会総裁であった加藤高明は政界再編を見通し、政友会勢力の強い北海道に自己の政治地盤を固めようと、大正五年八月実施の道会議員選挙を強力に支援した。
今回の道会議員選挙は啻に一地方議会議員選挙の競争と謂はんより、寧ろ中央に於ける政友、同志両派の勢力争ひにして、従来絶対多数を有せし北海道会の政友地盤を根底に於て覆へさんとする同志会本部の作戦。
(北タイ 大5・8・17)
と報道される激しい選挙戦で、加藤は「北海道ノコトモ愈ヨ本日決定ノコトト存候。結果如何哉、何卒吉報ノアランコト不堪希望候」と心配したが、好結果を喜び「北海道ニ関シ支出之件、異存無御座候。扠又当選者等へ電報発送ノコト、是又宜敷様御取計相成度候」(安達謙蔵文書の内、加藤高明書翰 国会図)と北海道応援から帰った安達謙蔵に書き送っている。
こうした経緯のある加藤の来札であったから、札幌区の市制要望を伝えるにはまたとない機会であったといえる。しかも、札幌区長からの単独要請ではない。全国市長の支持を得ているとなれば、同じ要請であっても受け止め方は違ってくるであろう。どちらかといえば、政友会的色彩を持つ阿部区長が、敢えて憲政会幹部に投げかけたこの変化球は、みごとに翌年の帝国議会議場に到達するのである。
道庁でも対応策を検討し、大正八年(一九一九)四月十六日付で内務大臣宛「市制施行ニ関スル件」を上申した。その中で、区が府県の市に比べ遜色のない発達をしているとし、次の処置を内務省に要請した。
最早特別制度タル区制ヲ存置スルノ要ナキノミナラス、今後尚現制度ノ下ニ置クハ、却テ区自治ノ発達ヲ阻害スルノ虞ナシトセス。且ツ大正六年北海道会ヨリモ市制施行ニ関シ建議ノ次第モ有之、此際区制ヲ徹(ママ)廃シ市制ヲ施行スルハ最モ機運ニ適シタルモノト認メラレ候条、速ニ御詮議相成候様致度。
(町村制改正 道図)
こうして札幌区も道庁も、市制を求める共通の認識に立って運動を進めることができるようになったのである。