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新庁舎

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 工事は木田組が請負業者となって昭和十年七月二日着工、八月三日地鎮祭、一時工事の遅れが心配されたが、十一年七月三十日上棟式、十二年三月三十一日工事完了し、四月十九日新庁舎三階市会議事堂において盛大な竣工式を挙行した。この場における伊沢助役の工事報告に「之ニ要シタル労力延四万九千二百五十人ノ多数ヲ算スルニ拘ラス、何等ノ事故ヲ見サリシハ洵ニ幸慶トスル所ナリ」とある。四月二十、二十一両日市民に、二十二日は名誉職員関係者に公開し、区役所以来の旧庁舎からの移転作業は「四月二十四日正午ヨリ同二十五日午後四時マデノ間ニ、吏員総動員ヲ以テ之ヲ完了、同日午後五時ヨリ庁舎四階正庁ニ吏員一同参列ノ上移庁式ヲ挙行」(札幌市事務報告 昭12)し、この日をもって新庁舎での仕事開始日とし、翌二十六日新議事堂で十二年第二回市会を開会した。

写真-3 札幌市役所(昭12.4完成,北1西4)

 竣工式で橋本市長は、新庁舎建設の意義を「巍然たる建築四隣の大厦と相映発して、市街の中枢に一段の光彩を添へ、畴昔の面目茲に一新して首都の庁舎たるの体様を整ふるに至」(橋本正治史料 式辞雑件編)ったと述べた。これには庁舎を市政事務処理の仕事場としてだけでなく、札幌市を北海道の中心都市と印象づけようとする配慮が込められていたといえる。当時の人口、職員数、議員数からして、あまりに庁舎の規模が大きく、しかも施設設備が充実していたから、無謀、無駄な事業と批判する人も少なくなかった。まだ五年間は旧庁舎の使用が可能である、と新築に反対した人もいたが、着工が二、三年遅れていたならば、財源の締付け、物資の統制により、この庁舎の完成は不可能となったであろう。そう考えると新庁舎は市制施行後の都市基盤整備事業を集約的象徴的に物語り、地方自治拡張の一つの帰結点であったといえよう。
 新庁舎で執務後、敗戦に至るまで本庁舎の移転はなかったが、庁舎にかかわる次の二点に触れておきたい。一つは円山町が昭和十六年四月一日に札幌市と合併したため、従来の円山町役場が市役所円山出張所となり、旧町役場は出張所庁舎としてそのまま転用された。しかし存続期間は一年に過ぎず、市役所機構では十七年三月三十一日をもって円山出張所が廃止された(告示三七号 昭17・3・30)。
 二つ目は太平洋戦争の激化にともない空爆などの非常変災が予測され、庁舎使用不可能になった場合の移転先が定められたことである。昭和十八年八月十七日の決定により、非常変災時は市役所をまず大通国民学校屋内運動場に移転することになった。ここが使用不可能となった時は、さらに円山国民学校屋内運動場へ移転することとした。なお庁舎の一部分だけが被害を受けた際は、当該課係のみを衛生会館二階か市民武道場に移して執務することを定めたが、こうした災害を蒙ることなく敗戦となった。