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市会議員初選挙

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 市制施行により区制と較べ大きく変化したのは、市会議員の選挙権、被選挙権の制限が大幅に緩和した点である。二五歳以上の男子で独立の生計を営み、二年以来市に住んで直接市税を納める者を公民とし、多額納税の規定がなくなったから、有権者は一万二七三三人(大11・9・1現在)と飛躍的な増加をみせた。これを当時の戸数当たりの比率でみると五五・六パーセントで、ほぼ二戸に一人の公民がいるようになり、大正九年(一九二〇)に実施された最後の区会議員選挙時より、人数で一万五〇五人、戸数比で四四パーセント増となった(市史 第三巻六一頁)。議員定数は三〇人から三六人に増え、人口増にともなう定数増も可能になった。級別制はなお残置されたが、三級に分けていたものが二級となり、議員の任期は四年で全員改選、投票は単名(区制では六年任期半数改選、連名投票)と、市民の自治権は拡張した。
 市制施行にともない、従来の区会は自然消滅し議員資格も喪失したので、札幌市はその後しばらく市会を持たない異常事が生じ、道参事会が緊急案件の処分に当たり、一日も早い市会の成立が望まれた。初の市会議員選挙は、大正十一年九月二十四日付告示第一八号をもって、この年十月三日(二級議員一八人)、同月五日(一級議員一八人)に行うことが決まり、二級四五人、一級二九人が名乗りをあげ、激しい選挙戦を繰り広げた。前回の区会議員選は、政派間の調整によって無風状態であったが、今回は市制初選、有権者増、さらに水力電気問題が政派をこえた論点となって、市民の関心が高く、「何れも沢山な運動員を使って茲一週間ばかりは火花を散らし、入り乱れて乱闘し、何処も此処も運動員の鉢合せ」(北タイ 大11・10・3)という状態だったが、札幌倶楽部が市民大会を開いて、市会の政党化排除を訴えたのが注目された。
 結果は二級一一人、一級八人計一九人の中立議員を誕生させ、落選者分を含めて五二パーセントの票を得たから、これを今回選挙の特徴とみることができよう。ただ、中立か否か、個々の議員の立場を特定することは難しい面がある。普通選挙断行を主張した憲政会(実業青年会)と、その尚早漸進論を唱える政友会(公友会)の両勢力は、初市会議員選挙で逆転し、「久しく多数派として区政の中心勢力たりし公友会は急転直下惨敗の憂き目を見、反対現象として久しく少数派として慴状せしめられたる憲政会系が頓に其拾頭を来し」(北タイ 大11・10・7)、以後翼賛選挙に至るまでの市会勢力の原型を形づくった。
 また、この選挙における新旧議員の交代が顕著で、以後の選挙でも加速し、区会から引き続く議員は減り、これにともない議員年齢が若返ったこと、投票率は二級八四・〇パーセント、一級九〇・七パーセントと、これまでにない高率を示し、有権者の拡大が市政に転機をもたらしたとみることができよう。