この時期、昭和二年の普通選挙法の実施まで一級町村は豊平町、琴似村、札幌村の三町村であったが、初の両級の選挙を迎えた札幌村では、定員一六人に対して二四人の立候補で「競争激甚」とされ、「目下盛んに暗中飛躍を試みられ居るが、体勢は既に定まれりものゝ如きも烈々布方面は今尚混然なるものあり」と報ぜられ(北タイ 大13・5・29)、さらに「二級の競争激甚の結果、各部落は部内の勢力牽制に非常なる支障を来せし故、一昨夜深更まで妥協運動を開始せしためか、昨日の一級は案外無事に終了を告げた」とされ(北タイ 大13・6・3)、従来の選挙方式とは異なるだけに選挙運動にも相当の混乱がみられたようである。また、豊平村では大正十四年六月の町議選の際、二級選挙で落選したのに翌日の一級選挙でまた立候補するという、両級選挙のもつ矛盾が現出するケースもあった。
町村議員は地区の利益代表の性格を持っていたので一、二級町村を問わず、地区(部)にてあらかじめ予選会を行う場合も多かった。たとえば札幌村の丘珠では部で予選会を行っており、大正九年六月十四日に制定された「規約書(契約書)」によると、
村会議員及ヒ部長其他ノ役員ヲ当部ヨリ選出スル時ハ総テ予選ノ結果ニ依リ多票者ヨリ順次村会議員又ハ部長、衛生組長、其他ノ役員ト雖モ此例ニ依リ当選者トナスコト。
とされていた。これが締結されたもともとの契機は、同年六月一日の村会議員選挙にて、予選会で四位であった許士善太郎が三位者を辞退させて立候補し当選したという「風説」によるものであったという(契約書ニ対スル理由)。これ以前から丘珠では予選会が慣例となっており、三位までの候補を「部落公認」として当選させ、村会に送り出していたのである。許士善太郎は大正五年、七年と村議に当選していたが、おそらく「部落公認」を得てのものであったろうが、大正九年春に御料地の払下げの際、名義人(上小作)の許士善太郎と一八戸の小作人(下小作)が共に払下げを希望して対立する事件が発生した。これにつき部の大多数を占める御料地小作人(九年六月の「小作人連盟規約」には九九戸)も、下小作側に同調して対立したために許士善太郎は部の公認を得られず、上述の手段で立候補し当選をはたしたわけである。