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不況の諸相

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 一九二〇年代の不景気について、たとえば大正十一年末に札幌のある古着屋は、こう語っている。
今年は労働者が割合少いようで私共の商内(あきない)は労働者と田舎の人が景気がよくなければ甘いことがありませんよ、二、三年前のような景気ですと女出面であっても帯やコートや角巻類なども相当に出ましたが今年は空駄目ですな……
(北タイ 大11・12・7)

 一九二〇年代には、このような不況感が持続していた。札幌には、職を求めて道内各地から失業者がやって来た。昭和二年一月には、これらの人々は、「停車場待合室に暖をとり」あるいは「北一条西四丁目電話局建築作業所内に一夜を過ごす者」などあり、苗穂の無料宿泊所も一四〇人の定員が一杯になったという(北タイ 昭2・1・16夕)。
 関東大震災、金融恐慌と二度も金解禁の機会を逸した政府は、浜口内閣井上準之助蔵相のもとで緊縮財政を実行しつつ、金解禁政策を進めた。昭和四年には、公私経済緊縮北海道地方委員会札幌支部が設立され、市長、助役をはじめ学校、実業界、火防組合・衛生組合などの地域の長をことごとく網羅した組織とし(北タイ 昭4・9・28)、全国の例にならい市長以下幹部は、俸給減額を自ら申し出るに至った(北タイ 昭4・10・17)。
 昭和五年は、農産物が豊作であった。札幌拓殖倉庫の営業報告書は次のようにいう。
米雑穀等一般農産物は概して豊穣を観、世界的経済界の不況は更に深刻を極め諸物価は益々暴落を重ね当業者は更に前途安を見越し一層買付を警戒し新穀出廻最盛期たる十月に入りたるも貨物の出入は予想に反し例年の約半数にして甚だ閑散を極めたり
(札幌拓殖倉庫株式会社 第一九期営業報告書 昭6・7)

 今井商店も、農産物価格の崩落、売れ行き不振により「地方農家は益々疲弊加はり一層購買力を減退せしめ」「商況著しく不振を来し」たと記している(株式会社今井商店 第一二回営業報告書 自昭和五年二月七日至昭和六年二月六日)。
 ところが、翌六年はまったく様相が異なっていた。すなわち「春来の天候は著しく不順を極め夏季に至るも容易に回復せず……米雑穀等は近年稀なる凶作を告げ」たのである(札幌拓殖倉庫株式会社 第二〇期営業報告書 昭6)。凶作は翌年以降も続き、五年の米収穫高に対する比率をみると、六年三六パーセント、七年二八パーセント、八年一〇九パーセント、九年六〇パーセント、十年六〇パーセントであった(岩崎清一 北海道興業株式会社設立ヲ提唱ス 昭11)。水産物では、六年の鰊漁は豊漁であったが、鰊〆粕は過剰と化学肥料の普及、農家購買力減退により市価暴落し、対中国向け輸出を販路としていた昆布、鯣、帆立貝柱などは中国における銀貨暴落(円高)、満州事変前後の日貨排斥運動によって輸出が減退し、価格も暴落した(北海道拓殖銀行 第六四期営業報告書 昭6下半期)。
 「欠食児童」という言葉も新聞紙上で散見するようになる。年末には、恒例の細民救済給食事業が行われていたが、五年十二月二十九日には、市内六カ所にて延べ一六七九人に餅、白米等を支給した(札幌市事務報告 昭5)。また札幌市は、失業者救済事業として豊平川の砂利採取事業を五年十二月十九日から六年三月三十一日まで行い、失業者延べ一万四七六九人を使役したという(同前 昭6)。