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北門銀行・北門貯蓄銀行の成立

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 札幌に本店を置く貯蓄銀行に拓殖貯金銀行があった。第一次世界大戦後の反動恐慌以来、全国では貯蓄銀行の破綻が相次いだために、貯蓄銀行法が大正十年四月に公布され、翌十一年一月施行された。これにより、貯蓄銀行の普通銀行兼営は認められなくなり、普通銀行的業務を行っていた拓殖貯金銀行は、普通銀行に転換することを決めた。ところが、当時の水越理庸拓銀頭取は貯蓄銀行の欠如を憂い、貯蓄銀行との並立構想を説いた(西辻厳 北海貯蓄銀行二十年史)。
 このころのものと思われる、拓殖貯金銀行の罫紙に書かれた『貯蓄銀行ト普通銀行連立案』(拓銀蔵)という文書がある。これによると、「貯蓄銀行法実施ニ伴ヒ現在ノ拓殖貯金銀行ノ外、新ニ普通銀行ヲ設立シ、之レヲシテ拓殖貯金銀行ノ普通業務ニ関スル部類ノ営業ヲ継承セシメ、両者互ニ連絡ヲ取リ経営セントスルハ銀行法改正ノ場合ニ処スル一策トシテ考慮ノ余地アリト信ス」とされている。そして「両行ノ関係及連絡」として、一、両行は独立はしているものの、現在普通銀行において貯蓄銀行業務を兼営しているように利害共通のものとすること、二、新設普通銀行の株式は現貯金銀行の株主において引き受けること、三、両行の役員は大部分兼務すること、四、現貯金銀行の営業用土地建物等は普通銀行に引き継ぎ、貯金銀行は普通銀行と同一営業所内に支店、出張所、代理店として存置し、家賃をはらうこと、五、貯金銀行の預金は毎期一定(一割五分程度)の利益を得る程度を残し、それ以上は普通銀行に漸次引き継ぐこと、六、貯金銀行の貸金はほとんど全部普通銀行に継承せしめること、などを定めていた。
 北門銀行は十一年一月二十八日に、北門貯蓄銀行は一月三十日にそれぞれ創立総会を行い、開業した。役員は、拓殖貯金銀行の取締役頭取長友比佐吉、常務取締役小竹文次郎、取締役正富照治、石原三郎、黒田清治、監査役三名すべて北門銀行に引き継がれたが、任期満了の小竹文次郎に代わって井上外幾雄(拓銀為替割引課長)が就任した(北タイ 大10・8・2、11・1・30)。一方、北門貯蓄銀行は、拓殖貯金から取締役小竹文次郎のみが留任し、他に古谷辰四郎(米穀荒物雑貨商)、篠原啓二(拓銀調査部長)を水越頭取の推薦により選出している(北海貯蓄銀行二十年史)。したがって、北門・北門貯蓄両行の取締役の兼任はなくなり、両行に拓銀幹部社員が派遣されている。
 貸金は、拓殖貯金銀行の十年七月末の八七六万円に対し、十一年一月末の北門銀行が八八五万円であったから、ほぼすべて継承したといえる。営業用土地建物等もそっくり引き継いだ(北タイ 大10・8・2、11・1・30)。大正十五年に長友頭取が辞任すると、後任人事は「慣例により加藤拓銀頭取に推薦を一任し」、元大阪市助役池原鹿之助が就任した(北タイ 大15・5・26)。
 拓銀との関係は非常に密接であり、細部にわたる監督・点検を受けていた。大正十五年五月四日に拓銀秘書課から北門銀行頭取に宛てて「左記事項ハ当行頭取ノ承認ヲ受クルコトヲ要ス」として、二一項目があげられている。たとえば「株金ノ払込ニ関スル事項」「人事ニ関スル事項 行員ノ任免、移動、賞罰ノ件、傭員(給仕、小使、掃除夫等ノ類)ハ予メ定員ヲ定メ置キ、定員内ノ異動ハ承認ヲ要セス」「重役会ニ関スル事項」「諸貸出 イ、証書貸付、手形貸付、割引、貸越及信用状ノ発行ハ一口ノ金額担保付五千円、無担保三千円ヲ超ユルモノ ロ、同一人ニ対スル諸貸出合計一万円ヲ超ユル担保付貸出及六千円ヲ超ユル無担保貸出」「預金、貸出の標準利率」「公債、社債、其他各種有価証券ノ応募、引受及買入」など、銀行経営の根幹に関わる部分が承認事項となっていたのである。またこれらのほかに、日報として預金、貸金など六種、隔週報として個人別諸貸出残高表など二種、月報として一〇種、半期報として七種の諸統計の提出が要請されていた(秘書課 北門銀行ニ対スル通知案 北門銀行関係書類 拓銀蔵)。