昭和恐慌期には、金融難に加え、百貨店の進出、発展が小売商の経営難をもたらした。札幌では、昭和八年十一月に札幌小売業組合同盟会(以下同盟会と略)が組織された。全国では、産業組合や百貨店に対抗して「商権擁護」の中小商業者の運動が激化していたが、同盟会はこれらの動きに対し「我々の目的とする所のものは時流に棹して自己の立場を有利に展開せんとする事では無く……他の階級に対する協和によりて営業の基礎を安定せしめ自力更生を図らんとするに至った」という(札幌小売業組合同盟会 第一回札幌市商業調査 昭11・12施行、以下の記述は本書による)。
同盟会は、全国各都市で行われた商業調査、商店街調査にならい、札幌独自で小売商業調査を行った。彼らは、中小商工業の不振、行き詰まりは、「単にデパートの重圧に起因するものなりしとし、同業組合を組織し、或は低利の融資を得ば、この難関を突破するを得らる」とされるが、中小商工業の不振は、「同業の多数にありて、若し其業務の種別、人口との比率、分布の状態、従業員の数、資本の多寡、営業高並に収益等、詳細の統計資料により、之を研究するを得ば」自ら打開の道が開ける、という問題意識をもっていた。この調査は、民間主導で行われた商業調査として画期的であるばかりでなく、その質・量の点でも他に例をみないものであった。そこで、まず調査方法について紹介しよう。
十一年十一月十二日同盟会長小谷義雄、副会長上井源蔵、理事金子久吉らは調査項目決定委員会を開催し、調査項目、商業調査員心得を決定した。十八日調査委員総会を開き、商業調査員心得を配布・説明し、翌日から各調査区(祭典区に一致)ごとに調査委員打合会を開き、二十六日より三十日まで予備調査を行った。また、各戸には商業調査趣意書を配布し理解を求めた。趣意書は道庁、市役所、商工会議所名で出されている。そして、十二月一日から五日間にわたり本調査を行ったのである。調査票には業種、卸小売の別、開業年、営業収益税・営業税納税額、現金売貸売の別、貸倒比率、営業資金借入先、営業以外の収入、「営業上ニ希望セラレル事項」などの項目があった。調査員は市内一七区で合計一四九人にものぼった。調査対象は金融、デパート、理髪などのいくつかの業種と、大商店を除く商業者全般であり、回収された調査票は六七一七枚にも達した。集計は札幌商業学校が担当し、物品販売業を中心とし、かつ法人を除く個人営業者のみ六〇四三票を集計した。
まず、小売と卸売の比率だが、札幌、仙台、東京を比較した結果、物品販売業に占める卸売比率は、東京一三・二パーセント、札幌八・六パーセント、仙台一・二パーセントであった。すなわち札幌は単に消費都市であるのみならず、樺太・北海道を後背地に控える仲継商業都市という性格も持っていた、とされている。
人数の多い業種は、①菓子麵麩類、②荒物雑貨類、③織物被服類、④蔬菜果実類、⑤魚介藻類、⑥機械車輌農具、⑦古物商、⑧小間物洋品、⑨薬品・染料・顔料・化粧品、⑩金属材料及び器具であった。ここで同書は興味深い分析をしている。仙台、東京と商店一店当たりの戸数、人口を比較したのだ。その結果、他都市と違っているのは、古物商が著しく過多であり、機械車輌農具商が仙台に比べ著しく多かった。それは、札幌市の借家の畳建具類は借家人の負担となること、冬は貧富の差なくストーブを所有することにより古物売買が盛んだったからである。機械車輌農具については、馬車の利用が多いこと、農業において一戸当たり経営面積が大きく農具需要が大きいことが理由とされている。
開業年次別にみると、調査時点から一〇年以内の者が、六〇・七パーセントであった。ところが、営業収益税納税者は四二・五パーセント、営業税納税者は七二・四パーセントと差があった。前者は長く継続した者が多く、後者はより新陳代謝が激しかったのである(膳亀奈美枝 大正・昭和戦前期の札幌における百貨店の展開 札幌の歴史27号)。最近一〇年間の開業が多い業種は、①電気機械器具商、②図書雑誌出版物類、③機械車輌農具類、④玩具運動具遊戯品であった。電気機械器具商は、札幌放送局開設に伴うラジオ受信機、照明器具、広告用ネオンサイン、小工場の電動機などが需要拡大の牽引車となっていた。図書雑誌出版物類は、サラリーマン階層の増加、北海道帝国大学の拡充が原因とされている。機械車輌農具類は先にふれた。玩具運動具遊戯品は、「半歳の雪に土の香を恋ふ人の心は、融雪と同時に軟式野球と庭球へと向はせ」、諸官庁、銀行、大会社から商店まで「苟も人数の揃ふ処で野球チームを組織しないもの無く」、また冬は「土曜日曜の郊外のゲレンデに……男女スキーヤーの蝟集する壮観」という状況が需要を拡大していたとされる。
本調査のメインは、掛売と現金売の比率を調べることであった。その結果は、小売商の八五・八パーセント、卸売商の八八・八パーセントが掛売を行っており、しかも代金決済の七割以上を掛売としているものは、小売商の三七・二パーセント、卸売商の六一・五パーセントにものぼった。その結果、掛倒れについては、まったく無い者は小売商の一〇・六パーセント、卸売商の八・一パーセントにすぎず、両者合わせて八六・九パーセントは、代金決済の一割までの範囲ではあるが、掛倒れを経験していた。
最後に資金の借入先をみてみよう。小売商は、問屋三六・五パーセント、個人二六・六パーセント、無尽一五・一パーセント、銀行一一・四パーセント、保険六・七パーセント、信用組合三・七パーセントであった。これに対して、卸売商は、問屋三一・一パーセント、個人二四・九パーセント、無尽一二・六パーセント、銀行二〇・六パーセント、保険七・三パーセント、信用組合三・五パーセントとなる。問屋、個人による金融への依存が大きく、特に小売商にとっては銀行は縁の遠い存在であった。
昭和恐慌期を前後して、小売商側の経営改善・合理化努力も行われた。すでに大正十五年初頭に飾窓(ショーウィンドウ)の設置、夜間照明が提唱されていた(前田建 舗道完成から店前設備へ―飾窓の能率を発揮せよ―札幌商業会議所月報 第四二号)。市内最大の商店街狸小路でも、道路舗装、鈴蘭灯設置、露店廃止など環境整備を実行し、昭和七年九月には狸小路青年会が発足し、更生策を検討した。そこでは、商店街が丸ごと商業組合を結成する構想も話し合われた(樽新 昭7・11・15)。当初、三越支店や丸井今井に対抗しようとする意識が強かった狸小路も、百貨店との共存を模索する方向に変わってきた(前出 大正・昭和戦前期の札幌における百貨店の展開)。昭和十年暮れの狸小路各丁会長の座談会記事では、投げ売りをする「腰掛式な店」がなくなり、街が落ちついたこと、デパートの買い物帰りに狸小路で買い物する客がいることなどが紹介され、商店街の更生を喜び合っているのである(北タイ 昭10・12・17)。