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鉱山の戦時体制

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 日華事変の勃発以来、諸産業では様々な労働動員体制が形成されるが、鉱山業関係では、国策で増産体制に入っているにもかかわらず、戦争の応召者が続出したため労働力不足が深刻化し、札幌の鉱山においても、一般の人々からの労働徴用が行われた。
 そのひとつは、朝鮮半島からの強制連行である。これは昭和十四年七月に閣議決定され、八月には道庁、手稲鉱山豊羽鉱山と鴻之舞鉱山から各一名が調査団として朝鮮に赴き、現地での連行の準備を行っている。そして十月には連行の第一陣が全国にさきがけて函館に到着し、約三〇〇人が手稲鉱山に送られた。ついで十五年三月には豊羽鉱山にも送り込まれたようである。その後手稲鉱山には、十五年中に二〇九人が三回に分けて送り込まれ、十五年には全労働者の約三割を朝鮮人労働者が占めることになった。また豊羽鉱山には入山の実数は判明しないが、入山の承認数は十四年度二二〇人、十五年度四〇〇人、十六年度四五〇人で、合計一〇七〇人に上る。豊羽鉱山にもこの承認数に近い人数が入山したものと思われる。
 一方、勤労報国隊がやはり十四年から動員されるようになる。これには、十四~十五年の冬季間に農漁民を主に動員された産金報国隊、十六年夏以降の商工業者から動員された勤労報国隊などがある。
 手稲鉱山には両者が動員された。まず産金報国隊は、札幌職業紹介所が音頭をとって、手稲鉱山へ送り込むために十四年冬に実施された。これは札幌村、白石村以外にも江別や石狩など札幌の周辺町村へ紹介され、十一月初旬には入山した。
 勤労報国隊産金報国隊と違い、冬閑期を利用したものではなく、国策による転業促進を強制されたなかで実施されたものといわれている。十六年夏を第一回目として数回組織された。手稲鉱山豊羽鉱山に動員されたのは、主に札幌・小樽の商工業者である。勤労報国隊の動員は、手稲鉱山には十六年八月、十七年一月、七月の各一回と、十一月に二回の計五回動員されている。十八年以降は不明である。豊羽鉱山には十六年八月、十七年七月、九月、十八年二月の計四回動員されている。
 日華事変の勃発以降、このような労働者の動員のもとに、商工省が企画院や厚生省と一体となって、金属増産強調期間(昭16・5・1~7月末)、戦時金属非常増産強調期間(昭17・7、8月)を展開して、増産運動、労働強化およびその慰労などを実施した。また産業報国会札幌地方鉱山部会が全道の各鉱砿山へ呼びかけ、生産力増強総進軍運動(昭17・12・8~18・2・15)を展開した。戦時中には、このような運動を起こして何とか生産を維持発展しようとしていた(浅田政弘 手稲鉱山について、同 豊羽鉱山小史―戦前編)。