札幌には鉄工場が続出し、札幌第二の繊維工場としての北海道製綱も創設された。工場の増加により、札幌は工業都市の性格を帯びてきた(表1)。
表-1 札幌職業別人員 |
大正9年 | 昭和5年 | |||
男 | 女 | 男 | 女 | |
農業 | 1,414人 | 609人 | 1,287人 | 419人 |
水産 | 100 | 19 | 84 | 6 |
鉱業 | 204 | 7 | 115 | 2 |
工業 | 11,544 | 1,996 | 14,793 | 2,056 |
商業 | 7,486 | 2,319 | 12,252 | 5,026 |
交通 | 3,757 | 450 | 3,402 | 377 |
公務員・自由業 | 3,506 | 1,288 | 9,230 | 2,333 |
その他有業 | 1,759 | 650 | 3,170 | 612 |
家事使用人 | 16 | 19 | 262 | 2,678 |
無業 | 2,541 | 1,681 | 40,914 | 69,508 |
計 | 32,327 | 9,038 | 85,509 | 83,067 |
各年の国勢調査結果より作成。 |
札幌の工場労働者に共通していたことは、なによりも休日がないこと、労働時間が長いことであった。大正中期には、明治末年に比較して労働時間は長くなり、休日は逆に減少した。大正十五年の古谷製菓工場の工場規則をみると、労働時間は、
自三月一日至九月三十日午前六時ヨリ午後六時マデ
休憩 午前十五分 正午一時間 午後十五分
自十月一日至二月末日 午前六時三十分ヨリ午後五時三十分マデ
午前十五分 正午三十分 午後十五分
休憩 午前十五分 正午一時間 午後十五分
自十月一日至二月末日 午前六時三十分ヨリ午後五時三十分マデ
午前十五分 正午三十分 午後十五分
となっており、休日は毎月第一、第三日曜、新年の一日より三日、大晦日だけであった(古谷第二工場規則)。
大正末期には、不況のため、大正中期に比較して、労働時間の短縮、休日の増加がみられたが、それでもこのような状態であったから、大正中期にはいかに労働時間が長く、休日が少なかったかが想像できる。
労働時間の長い(公称一一時間。工場幹部でさえ「職工は全く私用はできません」と公言していた)ことで知られていた帝国製麻では、女工の病気、死亡が相次ぎ、新善光寺境内に職工弔魂碑を建設し、大正六年(一九一七)十月十五日に最初の追善供養を行った(北海道報 大6・10・19)。創業以来の事故死者、病死者は一二六人であった。製麻の女工定年は三五歳であったから、犠牲者の大半は若い女性であった。この工場は札幌最大の工場で、六年六月の職工数は、女工七八〇人(うち寄宿舎二八三人)、男工二七〇人であった。
大正中期に増加した職工には幼年工をはじめとして、熟練度の低い臨時工が多かった。
馬鉄は電車に変わり、タクシー・トラック運転手が出現した。近郊では、定山渓の奥に豊羽鉱山が開業し、鉱山労働者が出現した。職人、車夫、馬力業者は時代遅れの存在とみられるようになり、いままでよりも差別が強まった。商店でも、従来からの番頭・手代・丁稚に代わって、学校出の店員が増加してきた。看護婦・女店員も増加してきたが、まだ女中扱いされていた。