「札幌は塵芥の都である、どうだ何処へ行っても塵芥の山で無いか、(中略)本気にやる積りならモット方法も手段もあらう」(北タイ 大11・11・11)。これは、市制施行まもないころの一市民からの新聞への投書である。大正十一年当時の札幌市の場合、二万四一三戸の台所から出る塵芥は、東橋下流はじめ五カ所の塵芥捨場に三三台の馬車で運んでも運び切れないという大きな悩みを抱えていた。札幌市の塵芥処理は、第三巻で述べたように、悪疫の流行を未然に防止するためやむなく「汚物掃除法」(明33公布)にもとづいて、明治三十四年から公費によって各衛生組合の請負で実施されてきた。それでも一般市民のなかには、下水に汚物を投棄して罰金を課せられた者(北タイ 大12・3・26)や、豊平川や空地にところかまわず塵芥を捨てる者がいて(北タイ 昭4・8・14)、市衛生課では警察署と連絡をとって対応していた。
事実、昭和五年一年間の札幌市の塵芥量は、四万七一〇四トン(一日当り一二九トン)、これにかかる経費も七万一四八二円(札幌市統計一班)と、かなりの額をなしていた。市では同年の塵芥のうち、可燃物を調べたところ、四五・二九三パーセントもあることがわかった(札幌市事務報告)。この対策のため市衛生課では、すでに大正十三年全国各都市に塵芥処分について問合せたところ、焼却にしていた都市が二四もあり(北タイ 大13・2・1)、塵芥焼却場の建設を立案、昭和九年七月起工、十年九月竣工したので同月から焼却を開始した(札幌市事務報告)。