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昭和十二年夏の札幌

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 「満州事変」から六年目の夏を迎えた。札幌は三年後すなわち昭和十五年開催予定の冬季オリンピックの開催地に選ばれていた。このため六月十九日午後は、小学校児童および中等学校生徒約八〇〇〇人による旗行列が、夜は男子中等学生、青年団員、青年学校生徒、一般市民一万三〇〇〇人による提灯行列が行われ、熱狂的雰囲気につつまれていた。ことに夜の提灯行列では、「オリンピック祝歌」を高らかに歌い、中島公園から北大まで行進途中六回も「万歳三唱」を唱えるといった祝賀ムードにあふれていた(北タイ 昭12・6・20)。
 日中戦争へ突入することになる盧溝橋事件当日の七月七日は、「開道七十年」を記念する小樽市主催の北海道博覧会の開会式とあって、新聞は「祝北海道大博覧会開会」の記事や広告でうめつくされている(北タイ 昭12・7・7)。
 札幌では、小樽の道博の向こうを張って七月十五日から中島公園を会場に文化振興展を開催、各展示館のなかでも北海タイムス社冬季オリンピック館の展示がひときわ注目を浴びていた(北タイ 昭12・7・16)。
 軍需関係を中心に「好景気」が伝えられ、札幌三越の「海水浴用品売出し」の宣伝など、いつもと変わらぬ市民生活が連続している。しかし、昭和十二年夏、すなわち七月七日の盧溝橋事件をきっかけに日本と中国との全面戦争―日中戦争が開始された。これ以後、国民精神総動員運動の開始とともに新たな様相が市民生活にあらわれてくる。かつそれまで享受していた新聞・ラジオ・雑誌、あるいは映画、歌といったモダニズムのメディアまでが軍事上の報道管制を受けつつも、戦時体制を支える役割を担っていくのを知ることになるのである。