写真-3 生徒募集広告(北タイ 昭8.1.21)
明治四十年に設立された札幌区立女子職業学校は二度の組織変更を経て、大正十二年に本科四年制の札幌市立高等女学校となった。同校の「教育ノ大綱」によれば、教育目的は「教育ニ関スル勅語ノ御聖旨ヲ奉戴シテ女子ノ高等普通教育ヲ施シ心身ノ完全ナル発達ヲ遂ゲシメ健全ナル国民精神ト温良貞淑ナル婦徳トヲ涵養シ以テ堅実有為ナル中堅的婦人ヲ養成スルコト」(同校 学校時報 第一号)と規定し、良妻賢母主義に基づく教育の徹底を明確化している。また、「校訓」としては「謹ミテ御聖勅ヲ奉体シ忠誠ノ精神ヲ発揚スヘシ」「行ヲ愼ミ篤ク孝悌ノ道ヲ守ルヘシ」「信義友愛ノ道ヲ以テ広ク国家社会ニ貢献スヘシ」「操守ヲ堅クシ温良優雅ナル徳性ヲ涵養スヘシ」「身体ヲ健全ニシ学業ニ励ミ校規ヲ遵守スヘシ」の五項目を定めた(同前)。
一方、新設中学校では、札幌市が昭和十六年に「二十万市民多年の要望」(樽新 昭16・2・14)に応える形で、市立中学校を開設した。これは市立中等学校の増設を企図した、札幌市教育課長・村上善彦の「中等学校計画村上案」に基づいて、「紀元二千六百年記念事業」の一環として新設された(同前)。この計画は「大東亜共栄圏の盟主日本を双肩に担ふ次代国民を学都、札幌の名にかけて錬成せんとする」目的で立案され(樽新 昭16・2・15)、同校と同時に夜間の中等教育機関として、市立高等家政女学校、市立工業学校、市立商業学校の三校を新設した。市立中学校の新設に際しては、財政的な措置が講じられずに設立経費の七〇万円は全額市民の寄附に依拠する計画で、十六年二月には「市立中学期成同盟会結成会」が結成され、寄附募集に乗り出した。こうした動きに対して、同年三月の市会本会議で村田不二三は設立計画の杜撰さを指摘するとともに、新設を「一ヶ年延期してその間にあらゆる準備をし来年〔昭和十七年〕からどこにもはづることのない中学校をつくることが本道の首都教育都市のとるべき態度であらう」と主張した(北タイ 昭16・3・6)。事実、同校の開校時には専用の校舎は建設されておらず、桑園国民学校の三教室を借用していた。
実業学校に目を転じると、大正六年に採鉱科、機械科、木工科の三科を設置し開校した北海道庁立札幌工芸学校は、九年に札幌工業学校と改称するとともに、土木建築科を増設した(北海道庁立札幌工業学校要覧 昭16)。そして、十三年には土木建築科を家具科(昭和十五年に木材工芸科と改称)と建築科に分離した。同校は卒業生の大半が「会社工場」へ就職したように、「時局産業」の中堅技術者の養成を主目的としており、その要請に応える形で、昭和十二年には第二部採鉱科、十五年には第二本科機械科、十六年には第二本科木工科をそれぞれ増設した。同校への入学資格は高等小学校二年修了以上の学歴が必要で、各科の修業年限は本科が三年、第二本科が二年、第二部が一年とされていた(同前)。
写真-4 札幌工芸学校開校式(大6)
商業学校では、大正九年に予科二年と本科三年の五年制の札幌商業学校(甲種)が開校した。甲種とは尋常小学校卒業程度を入学資格とする実業学校である。予科は「普通科目」が主体で、それに「珠算科」が加わった。本科はこれらに加えて、「簿記」「商業算術」「経済原論」などの専門学科目を配した(同校 豊陵二十年誌)。同校は北海中学校校長・戸津高知が、「将来当市民にして子弟の教育に留意する者は、実業に雄飛せしむるを望みとする者多からんことを洞察し、新商業人の資質は建国の精神を体得し、心身共に健全にして而も高潔なる人格者たらねばならぬとの信条を実現」するための手段として、古谷辰四郎ら三人の実業家から各一万円の寄附を得て設立した(同前)。同校は十三年には文部省から「中学校ノ学科程度ト同等以上ノ学校」の認可を受けた。同校卒業生の就職先は、商業学校という性格が示すように「自営商店」「会社」「商店員」が常に上位を占めていた(札幌商業学校一覧表 昭10)。
昭和九年には前述のキノルドが設立した、札幌光星商業学校が開校した。同校の設立は「明日の商工都市札幌のために既設の札幌商業と共にその双翼の一つにも比すべき新興の商業教育機関」としての期待を担っていた(札幌教育 第一〇四号)。また、その設立は「試験地獄」の緩和効果も期待されていた(北タイ 昭9・1・28)。
写真-5 光星商業学校校舎(昭9)
これらの商業学校は、昭和十八年十月の閣議決定「教育ニ関スル戦時非常措置方策」に基づいて、工業学校へと転換した(道新 昭19・1・28)。札幌商業学校には工業化学、建築、土木の三科、光星商業学校には航空機科、機械科の二科をそれぞれ設置した(同前)。