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学徒勤労動員の実態

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 中・高等教育機関に在学する学生・生徒を対象とする学徒勤労動員は「集団勤労作業」という形態をとり、昭和十三年から開始された。これは同年六月の文部次官通牒「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」に基づき、中等学校では夏季休暇などの適当な時期に「低学年ハ三日高学年ハ五日ノ程度ヲ目標トシ」て実施するものであった。この通牒に基づいて、札幌工業学校では同年七月二十五日から二十九日まで、豊平川の護岸工事や軍需品の部品製造などを行った(札幌工業高校 札工六十年史)。札幌市立高等女学校では四年生が同年の夏季休暇中の一〇日間、歩兵第二五聯隊で冬用軍服・剣道着の修繕や「傷病兵白衣縫製作業」に従事した(同校 学校時報 第八号)。両校の事例は一部の学年を提示しただけで、実態は全生徒が一定の「集団勤労作業」に動員されている。
 翌十四年三月には改めて、文部次官通牒「集団勤労作業実施ニ関スル件」を発し、それを「夏季又ハ冬季ノ休業ノミニ限ラズ随時之ヲ行」うとともに、「出欠点検ヲ為ス等正科ニ準ジテ之ヲ取扱フコト」を指示し、動員体制を強化した。そして、十六年十二月には「国民勤労報国協力令」が公布され、一四歳以上四〇歳未満の男子と一四歳以上二五歳未満の女子は、それまでの「勤労奉仕」ではなく、国民勤労報国隊の動員に協力することを義務づけた。この法令によって、中等学校生徒の大半はこの勤労動員組織の一員として組み入れられた。昭和十七年度の北海中学校の勤労動員状況を見ると、ほぼ一年を通して札幌陸軍糧秣支厰豊平村農会、琴似村農会などに延べ一万一七六一人の生徒が動員されている(北海高校 北海百年史)。北海道帝国大学では十八年七月から八月にかけて、全学的にケトン(現ロシア・サハリン州)の陸軍飛行場建設に動員された(北大百年史 通説)。
 戦局が深刻化した十九年一月、政府は「緊急学徒勤労動員方策要綱」を閣議決定し、勤労動員の性格をそれまでの「教育実践ノ一環」から「勤労即教育」へと位置づけ直した。続く同年三月には「決戦非常措置ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定し、動員対象を国民学校高等科の児童まで拡大するとともに、通年動員の体制を敷いた。札幌工業学校では同年五月から採鉱科生徒は砂川などの鉱山、土木・建築・木材工芸科生徒は軍関係工場、機械科生徒は鉄工所と校内での軍需品製造にそれぞれ動員された(札幌工業高校 札工六十年史)。同校は十九年四月からその機械設備などを使用して軍需工場化=学校工場化が図られ、焼玉エンジンの部分品を製造した(同前)。この作業は機械科第二本科の生徒が担当した(同前)。

写真-6 札幌工業学校「学校工場」(毎日新聞 北海道版 昭19.5.9)

 二十年三月には政府が「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、「全学徒ヲ食糧生産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス」るために国民学校初等科を除く、学校の授業を同年四月一日から一年間停止することにした。北海道庁立高等女学校の生徒は同年五月から女子艇身隊として、市内各工場などに加えて、妹背牛村や納内村に援農作業に出動した(札幌北高校 六十年)。
 このように学徒勤労動員の歴史をたどって見ると、「勤労即教育」という勤労動員を支える理念は、まさに虚構で、教育の否定にほかならなかった。