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外山卯三郎の役割

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 大正十年六月に創刊された『北大文芸』は、大正十一年に外山卯三郎が入学して前衛芸術の紹介を積極的に展開するあたりから特色があらわれた。七号の「『R・U・R』の上演と舞台装置について」、八号の「詩と形態」、九号の「絵画の色彩について」などの評論は、北海道にモダニズム芸術の最尖端を導入したものであった。大正十二年九月の関東大震災勃発のため帰省した外山卯三郎は、築地小劇場での二カ月の研修や、ドイツから帰国して雑誌『マヴォ』を中心にアヴァンギャルド美術運動やダダイズムの紹介につとめていた村山知義と親しく接し、札幌に戻って詩と版画の雑誌『さとぽろ』を十四年六月に創刊した。『さとぽろ』創立の同人は服部光平、宮沢孝、相川正義、伊藤義輝、外山卯三郎伊藤秀五郎、宮井海平などの北大学生と、北大教授の斎藤護国の八人であり、学生たちは『北大文芸』にも執筆したことがあった。『さとぽろ』は外山卯三郎が大正十五年に京都大学へ転学したのちも続刊され、昭和四年九月までに二九冊を発行した(札幌市教育委員会編 札幌・大正の青春──雑誌「さとぽろ」をめぐって── 昭53・7)。

写真-2 『北大文芸』『北海道』『北方文芸』