写真-5 『時雨』『暁雲』
大正十年には一月に小納迷人が『北』を発刊し、雑詠選者に飯田蛇笏を迎え、道内に無償で配布した。これは本道俳壇にホトトギス系を伸展させる力となった。翌年小納は広島県に転じ、七号から比良暮雪が継いだが一三号で終刊した。大正十一年三月、川上夷風が滕六、天野宗軒、青木郭公らを迎えて互選句会「毬栗会」を結成し、俳誌『野水』を一四輯まで出した。
大正十二年八月、宗軒は暮雪とともに平明調の徹底を意図して「軒雪会」を起こし、九月に青木郭公の「落葉松吟社」、十一月に西原晒々の「月次会」、野口卜居の「紅実吟社」などの結成が相次ぎ、自由律俳句の運動が活発になった。十四年には栗城枝幸を中心とする青年グループによって「凍土会」も組織された。