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『時雨』の創刊

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 大正十年二月、牛島滕六は藤森氷魚、長谷部虎杖子らと『時雨』を創刊した。このことは札幌俳壇が本道俳壇の中心となる基礎が形成されたことを意味した。創刊号の巻頭言で滕六は、「吾等は俳諧の正道を歩まんとす。吾等は世に阿り俗に媚び、迎合以て声明を售らんとするに非ず。曲論横説己を欺き衆愚を惑はすは大なる罪悪なり」と述べている。『時雨』は滕六の事業の挫折からしばしば休刊を余儀なくされ、昭和二年から五年まで休刊し、大正十五年創刊の『暁雲』の独走を許したが、昭和六年一月に復刊し、『暁雲』と並んで本道俳壇の二大潮流を形成し、十二年五月、全一一四冊を出して廃刊した。

写真-5 『時雨』『暁雲

 大正十年には一月に小納迷人が『北』を発刊し、雑詠選者に飯田蛇笏を迎え、道内に無償で配布した。これは本道俳壇にホトトギス系を伸展させる力となった。翌年小納は広島県に転じ、七号から比良暮雪が継いだが一三号で終刊した。大正十一年三月、川上夷風が滕六、天野宗軒、青木郭公らを迎えて互選句会「毬栗会」を結成し、俳誌『野水』を一四輯まで出した。
 大正十二年八月、宗軒は暮雪とともに平明調の徹底を意図して「軒雪会」を起こし、九月に青木郭公の「落葉松吟社」、十一月に西原晒々の「月次会」、野口卜居の「紅実吟社」などの結成が相次ぎ、自由律俳句の運動が活発になった。十四年には栗城枝幸を中心とする青年グループによって「凍土会」も組織された。