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彫刻

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 『札幌の彫刻』(さっぽろ文庫21)をもとに昭和戦前期の彫刻をみる。
 道展発足時は、彫刻部門は出品数も少なく、第一回二点、第二回六点と低調で、在京の本郷新(道展第四回から会員)と山内壮夫(第七回から会員)は、突出した存在で両者の指導により道展の彫刻の質は向上してゆく。
 昭和十年第一一回道展武内収太は「彫刻評」として、ここ三、四年、道展彫刻部が質的、飛躍的に発展している原因を本郷新の指導に求めている(北タイ 昭10・9・30夕)。
 札幌の彫刻にかかわる展覧会では、昭和二年六月、中島農業館での「現代フランス美術展」でロダンのアダムが展示される。
 昭和六年の道展に対抗して開かれた、北海道美術家聯盟展では、帝展審査員加藤顕清ほか十数点の彫刻が出品され、札幌本郷新山内壮夫佐藤忠良らの新派在野系と加藤の官展系の二つの流れを有するようになる。
 日中戦争下においては、十二年に七年度に続き札幌三越で、本郷新山内壮夫彫刻展が開かれる。翌十三年には札幌三越で「第一回北海道国展作家協会展」が、絵画の国松登久保守、彫刻の本郷新山内壮夫佐藤忠良らによって開かれる。「ロダンで人間に目覚め、ブローデルで造形に目覚めた」本郷新は、アンチ・アカデミズムの旗手として十四年に山内、佐藤らとともに新制作派協会の彫刻部を結成する(匠秀夫 本郷新の芸術)。
 昭和十三年七月二十八日付『北海タイムス』に掲載された、「時局と美術の方向」で、本郷新は良心をもって日本主義を批判し、「大陸との活発な交流による吸収と洗練が、日本の伝統的文化遺産を生みそこに民族芸術の名が冠せられる」と述べている。しかしながらそこでは現実の大陸政策は所与の前提であった。