二十一年一月四日、GHQはすでに公職追放指令を出していたが(一章参照)、同十一月には、地方こそ日本の軍国主義の温床であり、地方の悪しき保守体質が変革されない限り、日本の民主主義は達成されないとして、「地方公職に対する追放覚書の適用に関する件」を公表した(天川晃・増田弘編 地域から見直す占領改革)。これを受けて、翌一月四日「公職に関する就職禁止、退官、退職に関する勅令」(勅令第一号)が公布・施行され、第二次公職追放が本格化し、追放の範囲は地方の政界・一般財界・言論界にも拡大されることとなった。
札商の役員・議員では、地崎宇三郎が大日本労務報国会、また小谷義雄が商業報国会(昭20・8・20札幌支部解散)の関係者として公職追放されている(総理庁官房監査課 復刻資料 公職追放に関する覚書該当者名簿Ⅱ)。
土木建設業を営む地崎組の二代目地崎宇三郎は、十六年から十八年三月まで札商の第二号議員(業種別代表)を務め、二十一年四月衆議院議員に当選したが、二十二年三月衆議院の解散によって議員を辞職、同年北海道商工会議所の第一期理事に就任している。彼の追放については、GS(民生局)とCIS(民間諜報局)が再三にわたって調査を行い(増田弘 公職追放―三大政治パージの研究)、二十二年四月十一日に追放の決定が公表された(道新 昭22・4・12)。同年七月二十九日、彼は北海道商工会議所の理事を辞任し(道商連50年史)、二十五年十月追放解除となったが、政財界への復帰をみぬまま翌年病死している(地崎工業百年史)。
一方、小谷義雄は大正六年札商議員に初当選しており、道商工経済会評議員を経て、戦後は札商の再建発起人となり、初代副会頭に就任した。就任三カ月後の二十二年二月、「公職追放の該当者は役員就任罷り成らぬ」との通知により辞任し、追放解除となってからは、二十七年の第一五期役員選挙で札商議員に復帰した(札商80年史)。
また三十五年からは、札商に設けられた商業活動調整協議会の会長を務め(札商80年史)、同年十一月二十六日には、市長が札商に設置した札幌商工振興対策特別委員会の委員長に就任している(さっぽろ経済 昭36・7)。
ところで札商ビルは、グランドホテルとともに米軍に接収されたことから、二十年八月末に時計台に移転し、翌年九月市役所内に札商の設立準備事務局を設けた後、二十四年四月に北四条西三丁目の札幌土建会館、二十七年六月には北海道産業会館と、事務所を転々としていた。
二十七年九月札商ビルは接収解除となったが、返還された建物はすさまじく荒れていたために、札商は復旧工事を行った後、同年十二月札商ビルに戻った。返還に際しては、同年十月七日札商は札幌調達局長大鍾儀孝宛てに次のような国家補償要求を行っている。すなわち「札幌商工会議所家屋原状回復に伴う国家補償要求見積額調書」とともに、一六八六万七二九六円を要求し、「家屋接収以来転々として五回も事務所の移転を余儀なくせしめられし他貸室並びに会議室の使用料等の財源を失った結果」、「多大の損失を蒙っておりますのでこの点特に御高配下さい」との文書も添えられた。その結果、二十八年九月、管理費として一二二万一一五九円、二十九年二月、接収不動産および動産の国家補償金として八五〇万九七七五円、合計(ママ)九七四万四三四円の支払いを受けた(札商80年史)。