終戦後もしばらく「国体護持」と団結が説かれた。北海道庁は昭和二十年八月二十五日、水島ヒサら三〇余人の女性を道議会議事堂に集め、熊谷長官・早坂内政部長と婦人懇談会を開き六項目を申し合わせた。要旨は「戦時服装の継続、街・道路の浄化、食糧増産と活用、貯蓄増強、傷痍軍人・遺族と被災者の援護、女子勤報隊員に対する家庭教育の徹底」であった(道新 昭20・8・26)。
九月六日義勇隊道本部は解散するが、道庁肝入りでこれに代わる北海道婦人会が十五日の準備会で直ちに結成された。道内の学校を卒業した一三歳以上全ての女性を会員とし、札幌に本部を、支庁・市町村に支部を、町内会・部落会・隣保班に分団や班を設けることとした。顧問に早坂内政部長ら二〇人を予定し、会長一人、副会長二人、理事と監事に一七人の女性の名があげられた(道新 昭20・9・17)。
札幌市支部設立のため二十二日第一回理事会が開かれた。組織は旧日婦(大日本婦人会)の形態をとるが、「ポツダム宣言を忠実に実行する」「女は女同志で助け合ひ戒めあっていく」方針を決定した。しかしまもなく、札幌で支部の事業計画・会員獲得・会費について、有閑的、半強制的、高額などの批判が出ていると伝えられ、「解放を毒する〝道婦〟」「天下り官僚団体」と、新聞論調は厳しさを増した(道新 昭20・10・20、12・4)。
結局翌年二月二十七日の道理事会で激論の末、三月十日解散することに決定した。農村方面代表一五人が民主的改組案を強硬に主張したのに対し、札幌市代表理事の山下愛子以下九人は組織の非民主的官製団体の性格を指摘したのである(なお農村方面とは旭川市、夕張市、小樽市の各市、上川、空知、後志各支庁など。「民主的改組案」とは、現組織を利用し選挙で支部役員を、支部役員の選挙で本部役員を決定しようというもの)(道新 昭21・3・1)。
しかし現実に公区婦人部への要望は根強かった。山鼻南部の連合公区は、旧日婦の積立金を婦人部予算として円満に接収し、各公区婦人班の予算をできるだけ多く計上して、婦人運動のみならず公区の仕事に婦人の活躍を期待する意向を示した(道新 昭20・9・9)。
札幌市も九月十九日、連合公区長、連合婦人会長、各公区長三百余人を集めて運営協議会を開き、特に貯蓄の推進と復員者援護についての協力を求めた(道新 昭20・9・20)。原田助役は翌年七月十六日の第一回連合公区婦人部長会議で、市政のあらゆる面に婦人の協力を訴えた。市の引揚対策委員会援護会は十二月六日、引揚船の函館入港に対する受入れを協議し、無縁故者二七〇人に対する札幌駅での給食は公区婦人部担当とされた(道新 昭21・12・7)。二十二年三月末解散まで公区婦人部は機能し、公区が市民会等に再編後も、地域婦人会として存続したものがあったと推測される。