写真-13 北海道婦人相談所(昭和32年開所)
一方、札幌市でも、同法の施行にともない、市婦人相談室が開設されることになった。ところで、これまで従業婦の更生施設として二十八年五月発足した市立中島ホームは閉所されることとなり、三月六日閉所式を行った。市福祉事務所長から「発足以来二百七十八名の女性を扱ったが、無断出所は二十八名にすぎず、全国のこの種の施設中では随一の成績をあげることができた」といった挨拶のあと、ホームの運営に功績のあった救世軍北海道連隊長原田次男、寮母原田とく、そして更生指導にあたってきた指導員たちが福祉事務所長から記念品と感謝状が贈られた(道新 昭32・3・7)。市福祉事務所では、四月から市婦人相談員を配置することとなり、人選に入った。北海道の場合、あまりにも管轄範囲が広すぎるうえ予算の制約もあり、活動は札幌市と周辺に限られ、市の婦人相談員は札幌市内を担当、道は市内を除く周辺地域(例えば千歳、定山渓)を担当するということで話し合いもまとまり、六月一日、初の市婦人相談員には竹井己之助(札幌家裁調停委員)・長野京子(道民生児童委員)の二人が発令された。場所は、市役所内福祉事務所の一角を相談室とし、更生相談にあたる一方、福祉事務所、保健所、円山病院、市衛生施設課、警察関係者で婦人問題対策協議会をつくり、更生対策を図るとともに性病予防取締りなどの面からも総合的な対策をねることにしていた(道新 昭32・6・2)。六月十九日には、中央保健所において、第一回市婦人保護更生対策連絡協議会を開催した。集まった関係者三〇人には、市内の従業婦が約五〇〇人もいること、旧白石遊廓地のように「赤線」地帯では減少しているのに対し、潜在化の傾向が顕著となり、しかも従業婦の多くが生活に困ってやっている者は少なく、安易な生活に慣れた性格が原因となっている者が多いこと、そのため更生保護機関が安易な構えでいては誰もやって来ないばかりか、追われても追われても姿を変え、あるいは地下に潜って「営業」を続けていくのが現状である、といった説明があった(道新 昭32・6・20)。市婦人相談室でも、開設一カ月半後の段階で、早くも二つの悩みを訴えている。一つは、一時保護施設のないこと、二つには、相談員の少なすぎること、であった。一番問題なのは、更生する意志のない「モグリ」従業婦をどうするかでもあった(道新 昭32・7・14)。それでも、五カ月が経過し、『道新』十月二十九日には、「婦人相談室の明暗二相」として、相談窓口からみた従業婦の実態が紹介されている。受付件数は四五件にものぼり、その結果就職二件、結婚三件と、明るい話題もあったが、「明」では、更生の意志も明確であり、抱え主からの借金棒引きも取り付け、某キャバレーに勤め、弟の面倒さえみ、生活態度もまじめなK子(二二歳)の場合を紹介している。しかし、まじめに更生しようという意志があっても、それに応えてくれる就職の場が非常に少ないといった現実がたちはだかっている問題も指摘された。「暗」では、樺太引揚のU子の場合、両親共すでに亡く、肺結核で市内病院に入院し、市福祉事務所に医療扶助を申請したことから相談員が病院を訪問した。ところが、病室には用心棒らしい男が出入りするありさま、病院側の話では「相当重体」、「二度とこの商売はできない身体だ。抱え主と手を切らない以上、市の保護も受けられない」と、話し合ったが、U子は、「快復後は抱え主のところに戻る」と主張するありさまであった。次に申し入れがあり「更生を希望する。なんとか保護を」と依頼があり、しかし、面会に行くと「アイマイな態度」を取り、抱え主との縁の切れることに不安を抱く、依存症的性格になっている例を紹介している。病気になっても、ドロ沼からはい上がれない女性の典型的例である。
市婦人保護更生対策連絡協議会では、三十二年十月十五日から二十五日にかけて市福祉事務所による「売春婦の実態調査」を実施した。その結果、調査対象者七八人について次のような実態が分かった。
(売春歴) 「どんな事情で売春婦になったか」の質問に対して。生活難五六人、家庭不和一〇人、誘惑五人、自暴自棄・好奇心・その他各二人、失恋一人。
(年数) 半年~一年二〇人、二~三年一六人、六カ月未満・一~二年各一四人、三~四年三人、四年以上九人、回答なし二人。
(生活) 扶養者のある者四七人。仕送り額五〇〇〇~一万円二九人、五〇〇〇円未満一三人、一万~一万五〇〇〇円九人、二万円以上一人。貯金のある者三万円以上八人(五〇万円以上一人を含む)、二万円以上一人。小遣い五〇〇〇円以下五三人。
(更生への気構え) 「来年四月以降すぐやめられますか」の質問に対して。やめられる六〇人、やめられない三人、わからない一五人。更生保護施設を利用する一一人、利用しない五五人、わからない八人、回答なし四人。
(年数) 半年~一年二〇人、二~三年一六人、六カ月未満・一~二年各一四人、三~四年三人、四年以上九人、回答なし二人。
(生活) 扶養者のある者四七人。仕送り額五〇〇〇~一万円二九人、五〇〇〇円未満一三人、一万~一万五〇〇〇円九人、二万円以上一人。貯金のある者三万円以上八人(五〇万円以上一人を含む)、二万円以上一人。小遣い五〇〇〇円以下五三人。
(更生への気構え) 「来年四月以降すぐやめられますか」の質問に対して。やめられる六〇人、やめられない三人、わからない一五人。更生保護施設を利用する一一人、利用しない五五人、わからない八人、回答なし四人。
(道新 昭32・11・4)
このように、従業婦の七一パーセントが生活難からいとも簡単に売春の世界に入っていること、経験年数が短いことは三十年ころの厳しい取締りの嵐にもかかわらず新しくこの世界に入った従業婦であること、このためには転落しそうな女性の保護救済に一層力を入れなければならない、といった大きな課題が提示された。
国・道・市をあげて「売春防止」問題に取り組んでも、従業婦の更生への道は問題が山積していた。北海道警察本部が三十二年十月末現在でとりまとめた数字でも、道内の業者八六四、従業婦三一八一人と、二十五、六年ころの業者約二〇〇〇人、従業婦推定八〇〇〇人と比較すると、格段の相違がみられるものの、二十九年、三十年と二年続きの凶作・凶漁のシワ寄せが売春に直結、北海道特有の娘の「人身売買」を生みだす土壌を根絶することの困難さを物語っていた(道新 昭32・12・5)。
三十三年四月一日、「売春防止法」は完全施行された。これにともなって業者は転廃業し、一応「赤線」「青線」の灯は消えたとされたが、地下に潜るケースが増加した。
一方、道婦人相談所や市婦人相談室の相談員たちの仕事は増加するばかりであった。三十二年から二〇年間にわたり市婦人相談員を勤めた長野京子は「婦人相談と私」(道新 昭54・2・23~4・20)のなかで「もっともいやだったのは、必要悪という言葉である。これを盛んに口にするのはどういう訳か、かなりものわかりもいいはずの、有識者に多かった」「婦人相談員という仕事に、好奇心とかヤユとか、時には冷笑の目が向けられていたことなど、私はちっとも計算に入れていなかった」と述懐する。しかも、唯一の理解者と思っていた当時の婦人団体の会員でさえ公娼制度の復活こそが自分の娘の安全を確保出来ると信じていたくらい、男女平等を盛り込んだ憲法の下において、女性の真の人権の確立とはほど遠い存在に置かれていた。
表31は、市婦人相談室が取り扱った相談件数と保護更生状況を示したものである。相談件数は三十四年を一〇〇とした場合、三十七年は三一三にも相当する。初期の頃は、就職、結婚、家庭への送還と同時に、福祉事務所へ移送して生活保護、生活資金の貸付等を受けさせるのが主であったが、次第に道婦人相談所やその他関係機関施設への移送が増加してゆく。助言・指導のみというのは、もちろん最初からあったはずであるが、三十七年には相談室の取り扱い件数の約四五パーセントにも達していることから、戦後の女性の生活状況の変化がここにも反映されている。
表-31 札幌市婦人相談室の相談処理状況 |
婦人更生資金の貸付申請手続 | 婦人保護施設に収容 | 就職自営 | 結婚 | 家庭へ送還 | 福祉事務所へ移送 | 道婦人相談所婦人相談員へ移送 | 他府県の婦人相談所婦人相談員へ移送 | その他の関係機関施設へ移送 | 助言指導のみ | その他 | 合計 | |
34 | ― | ― | 19 | 1 | 19 | 17 | 8 | ― | 10 | ― | 52 | 126 |
35 | ― | ― | 30 | ― | 19 | 22 | 6 | ― | 13 | ― | 51 | 141 |
36 | 3 | ― | 30 | 1 | 11 | 40 | 25 | ― | 16 | 67 | 67 | 260 |
37 | 4 | ― | 26 | 3 | 13 | 40 | 25 | ― | 36 | 176 | 72 | 395 |
38 | ― | ― | 1 | ― | ― | 11 | 3 | ― | 1 | 66 | 20 | 102 |
『札幌市事務概要』(昭34~38)より作成。 38年については,4月~12月まで。 |
次に市婦人相談室と連携して要保護女性の更生に当たっていた道婦人相談所における相談件数を図1に示した。三十九年度の七一五件、四十二年度の七四一件といった二つの山をピークに一旦は下降線をたどっている。これには、産炭地の閉山や離農による札幌市への人口の流入とも結びついていると考えられよう。
図-1 北海道婦人相談所における相談件数の推移
『明日へ生きる~開設40周年記念誌』より。
「売春防止法」が、売る側の女性のみを取締り、買う側、すなわち「買春」について罰則を設けていなかったために、「ソープランド」の名のもとに札幌では「ススキノ」を中心に形を変えて「売買春」は生き続けることとなる。