昭和二十年九月に文部省体育局が復活し、十三年以来行われてきた厚生省所管の社会体育行政が文部省に移管された。こうした学校体育と社会体育行政の一元化は、民主国家の創出において、その人的基盤となる国民の健康問題に対する専門的、組織的対応を重視する政策的意図にもとづくものであった。
札幌市は被爆による被害もなく、戦前からの体育施設が利用できたために、他府県に比べて近代スポーツの復興が早く、各種スポーツ組織・団体の改組、再結成も活発であった。また、終戦後間もなくして北海道軍政部民間情報教育課が設置され、戦時中の教育行政は一切停止されたにもかかわらず、体育・スポーツの振興については、何らの規制を受けなかった。二十年八月、札幌市の教育行政機構の改正により、教学課は「学務、教化、体力」の三係を置き、学校体育に加えて社会体育の行政事務を所掌した。体育会館は戦時中は市民武道場として利用されてきたが、二十一年三月に進駐軍の接収解除となり、市体育係はこれを市民スポーツ施設として市民に開放した。三月二日の『道新』は「武道場・明朗スポーツに再び開放」と題して、「今後は武道中心主義を排して卓球、籠球、体操等の明朗スポーツを包含し、併せて体育保健関係の集会場として広く市民に利用させたい」旨の市当局の意向を紹介している。また六月に、市は大通広場(西6~11)に、市民グラウンド建設の方針を打ち出している。二十一年二月、「北海道庁処務規定中改正」(庁達第三号)が行われ、教育民生部に学務課、社会教育課が置かれたが、市はこれに倣って教学課を学務課(学務係、体育係)・社会教育課(文化係、教養係、中央公民館)の二課に組織替えした。二十三年十一月、北海道教育委員会の発足に伴い、十二月に市の教育行政機構の改正が行われ、教育部に学務課、社会教育課、体育課の三課を配置した。体育課は体育係、学校衛生係の二係であったが、それは北海道教育委員会の保健体育部の構成に準じたものであった。この機構は、二十七年十一月の札幌市教育委員会の発足まで維持された。従って、戦後初期の市の社会体育行政は行政機構上、学校体育と社会体育を一元的に所掌する体育課の管轄下のもとで推進された。この頃の市の社会体育施策は、社会教育法に沿いながら、社会体育事務担当者の配置、スポーツ団体の育成、運動施設の整備や指導者の養成など、市民スポーツを促進させるための基盤整備に重点が置かれた。
これらの諸施策のうち、社会体育指導者の育成は早期に具体化された。その契機となすものは、「市町村ノ体育ノ生活化ヲ図リ体力ノ増進ト志気ノ作興ヲ図ル為」(文部省体育振興課)に、全国の市町村長に宛てた「体育指導員設置ニ関スル件」(通牒)であった。市は戦時中の体育錬成委員に代わる体育指導員が市民生活の明朗化、地域スポーツ促進の中心的担い手となることを意図して一五人の体育指導員を委嘱した。指導員はほぼ無給のボランティアとして市民スポーツの普及に努めた。戦後間もなく結成された各種スポーツ団体は、こうした献身的な体育指導員の努力に拠るところが大きい。またこの時期に、CIE教育課の一行が北海道のレクリェーション運動の視察のため、札幌を訪れている。市立高等女学校で開催された「職場体育振興協議会」に出席したCIE体育担当官、ノヴィル少佐は、勤労者のスポーツ・レクリェーション運動の必要性とその普及のための制度、条件整備の課題についての講演を行った。