占領が終わると神社への風当たりも和らいで、昭和二十七年当時の「復古調の波」に乗って、市内の神社は「戦前以上の繁盛ぶり」をみせるようになっていた(道新 昭27・5・9)。
戦後の日本経済は、朝鮮戦争の特需景気によってめざましく復興し、三十年代に入ると神武景気、岩戸景気にわきたった。人々の生活は、いまだ貧しいながらも余裕がみられるようになり、神社の例祭や初詣の参拝者も増えて、年を追って「戦後最高/戦後最大」の記録を更新し続けていた。神前結婚式は戦後民主主義の世代に定着し、神社の主要な財源の一つになっていた。そのため「ノリトよりも〝高砂やー〟の声が多く聞かれるほど、神社の結婚式は商業化し、映画館のスライド広告にまで宣伝、神社庁からお叱りをうけた」と揶揄されてもいる(道新 昭30・3・28)。三十一年の札幌神社の初詣には、「除夜の鐘を前後にしてわずか数時間の間に十五、六万人もの人が往来」するため、「鳥居をくぐって神殿までの参道は黙っていても押され押されてしまう状態」だったという(道新 昭31・1・5)。
札幌神社の例祭も、毎年「戦後最高」の人出が報じられ、神輿渡御は年々巡行距離を延ばしていた。三十四年には「新しいところとして円山市場、桑園地区、北七条通、北二十二条通(今までは北十九条通まで)、東札幌駅、伏見地区第二国道などへも足をのばし、幌北小で昼食をとること、雪印乳業会社で休憩することなどもはじめて。これで道のりは二日間でざっと二十二キロ、これまでより五キロ近くも多く」なった。行列には四交代延べ二五〇〇人が参加し、「市広報車が渡御のさきぶれに走り、騎馬警官、勤王隊の順で御所車にのった三つのミコシが続」くという盛況ぶりであった(道新 昭34・6・8)。市内中心部の商店街は、札幌祭り協賛を銘打った福引大売り出しに知恵をしぼり、デパートも夜間営業を行っている。三十三年の狸小路商店街では、「特賞にテレビと電気洗濯機、一等は電気ガマ、二等は毛布など、現ナマに代えて実用品を賞品」にし、「停車場通商店連合会も〝新緑の阿寒へご同伴ご招待〟を特賞」にするなど(道新 昭33・5・29)、高度経済成長前夜の世相がうかがえる。創成河畔には恒例のサーカス小屋が立ち並び、「お祭り景気をあおる露店は南一-南六間の西一、二丁目」に約三百軒が出店する賑わいであった。また、この頃から、札幌祭りは観光資源として意識されるようになってもいた(道新 昭34・6・8)。
市内各神社の祭典もまたそれぞれ盛況で、復員や引き揚げなどによる人口の増加ともあいまち、戦前にまさる賑わいをみせた。そこでは子どもたちが祭りの主役となり、子ども相撲大会が行われ、子ども神輿が町内を巡行した。三十三年の月寒神社では、それまで借り物ですませていた子ども神輿を新調している。祭典委員会の募金活動には、予算一八万五〇〇〇円を上回る四〇万円がまたたくまに集まり、「このさい一気にと六万円の大ダイコはじめ錦旗、日月旗、台ガサ、鳥毛、シシ舞い」などの祭典用具一式も、八〇年ぶりに新調されている(道新 昭33・9・6)。
祭典の活況は、寄付集めにおいて、市民と祭典委員との間に摩擦を生じさせた。氏子組織が任意参加になり、祭典費の寄付は自発的行為となったものの、それが一般市民に浸透するには時間がかかった。占領下の二十三年、「強制的寄付行為禁止に通達が再三」出され(道新 昭23・6・13)、二十五年にも札幌市は「強制寄付はいけません 市内各神社に警告」し、「民生委員、市会議員などの公職者が神社の寄付集めを行うのは避けるべきだ」としていた(道新 昭25・5・16)。しかし、三十年代に入っても「市民からの不満の声 半強制的だ」という新聞への投書があり、「①祭典寄付の性格は②割当金はどうして決めたのか③金の使途はと三つの疑問」が繰り返し報じられている(道新 昭32・3・31)。「お祭り寄付の解剖」を試みた記事は、神社の祭りが北海道の短い夏に集中することや、「結局は能力以上に派手な趣向を打とうする祭典区のムリが不満を呼んでいるようだ」としている(道新 昭33・5・29)。寄付集めへの批判は、「信教の自由」をめぐる論争として今に至るまで政治的な問題とされている。
三十年代の「復古」の風潮と祭りの賑わいのなか、札幌彰徳神社は、創祀八〇周年を迎えた三十四年に、旧名を復活して札幌護国神社となった。