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教会の再編

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 宗教団体法の廃止は、札幌の諸教会にも結社の自由、教会再編をもたらした。カトリック教会は、ローマ教皇を頂点として一つに統合されている組織であったから、敗戦時の四教会(北一条・北十一条・南十条〔山鼻〕・円山)は、日本天主公教教団解散後も天主公教教区聯盟札幌教区の下にある教会として連携して活動を続けた。ハリストス正教会は、札幌では一教会のみであったが、戦後の米ソ対立の中で日本の正教会の一部に分裂があったときも、他の大部分の教会とともにアメリカの教会との関係を保ち、常に全道諸教会の中心的位置にあった。
 教会再編の動きが顕著となるのはプロテスタントであって、日本基督教団から離脱する教会が北海道でも続いた。まずイギリス国教会系の聖公会は、昭和二十年十一月北海道臨時教区会を開催した。これによって北海道教区を再建し、翌二十一年、日本基督教団に加わっていた札幌・小樽・深川聖三一の各教会と教職が聖公会への復帰を果たした。軍隊を模した組織で社会救済活動を行うことで知られている救世軍では、二十一年三月に中央の復興準備委員会の協議が道内にも及び、七月に豊水教会が救世軍への復帰を決議し、札幌小隊に復称した。ルター派としての「一致信条」を重んじる旧福音ルーテル教会の山鼻教会は、二十四年七月、福音ルーテル教会に属し、福音ルーテル札幌教会と改称した。

写真-6 福音ルーテル札幌教会
(現日本福音ルーテル札幌教会 改修前)

 聖公会救世軍、ルーテル教会は、それぞれ教会組織・活動内容・信条など、他の教会と異なるありようを強調して離脱し、旧教派の再建に同調したものであった。合同教会である日本基督教団にとどまるよりも、教派の教会として立つ意義を重視したのである。また、戦後、再開された海外の自派教会・ミッション(宣教団体)の連帯と復興支援も教派の再建を促す要因となった。
 戦後、宗教団体法の廃止と諸教派の離脱によって、日本基督教団は解体の可能性もあった。しかし、同教団を構成した主要旧教派-日本基督教会、メソヂスト教会、組合教会など-の諸教会が合同教会としての教団成立の意義を認め、また北米の諸教派・ミッションが同教団の存在意義を認めて戦後復興を支援したため、同教団は日本最大のプロテスタント教団として存続した。
 一方、海外の教会との関係によるものではないが、二十六年(一九五一)五月に旧日本基督教会の一部が新しい日本基督教会(現日本キリスト教会)を設立し、日本基督教団へ大きな影響を与えた。もともと旧日本基督教会の中には信条と組織のあり方(長老制の採用)など、旧教派の伝統を保持し、教団内の会派として存続しようとの主張が根強く存在していた。会派制の主張の中心となったのは、札幌北一条教会牧師の小野村林蔵、小樽シオン教会牧師の近藤治義、北一条教会長老の西村久蔵らであった。しかし会派あるいは複式教会(小野村林蔵の造語という)の主張は、単一の教会組織・信条を共有しようとしていた同教団の方向とは相容れず、まず四月三日に札幌で一六の教会・伝道所によって日本基督教会北海道中会が結成された。
 この離脱によって、日本基督教団北海教区は教会数を半減させ、ひいては札幌の教会を二分することになった。同教団では、北海教区再建のため翌二十七年以降、北海道特別開拓伝道(北拓伝)に取り組むこととなる。札幌市内の新・日本基督教会の教会は、当初、北一条・円山の両教会であったが、のちに琴似・豊平両教会なども同教団を離脱し加入した。

写真-7 日本基督教会札幌北一条教会(当時の会堂)

 なお、占領期が終了し、次に述べるキリスト教ブームが終わる二十六、七年までの間、戦前から札幌に存在していた教派・教会のほかには、新たに進出した教派は少ない。キリスト新聞社発行の『基督教年鑑』が掲げる限りでは、日本ナザレン教団のみである。占領期の段階で存在した教会は、まだほとんどが戦前来の教会とその教派の伝道によって生まれた教会であった。