スーパーマーケットの隆盛やオリンピック前の本州大型店出店の動きは、都心部のデパートに店舗の大型化を促した。三越は昭和四十年隣接する富士銀行・北陸銀行の跡地を買収し、昭和四十六年十月二十八日増改築を完了し全館開店した。丸井今井は四十年五月に別館新築工事を完了し、四十四年十二月には本店の増改築も完成している。四十二年には南二条西二丁目のそうごデパートが改築され、金市館も四十五年九月には新増築を行った。また昭和四十年百貨店法の適用をうけた丸ヨ池内は、四十三年一月小売部門を丸井今井に吸収され新規開店した(平成十年再び丸井今井から独立)。一方南一条から南四条の拡幅事業をきっかけに駅前通に面して店を構えていた水野メガネ店、三兼、ギンザ洋装店、名取川靴店などが中心となり、協業店舗形式のビルを建設し、四十四年十月二十五日「ハイ・ショッピング・コスモ」を開業した。このようなビルは翌年九月一日に四丁目プラザ、十二月一日エイトビルと立て続けにつくられ、個人商店の「寄り合いデパート」化がすすんだ。また四十七年には地下鉄関連工事のため閉鎖されていたステーションデパートの一部が三月二十五日札幌駅名店街として再開した。
一方オリンピック前の昭和四十五年ごろ計画や噂のあった本州大型店の都心部進出は、オリンピック直後から本格化した。四十八年十月五日にはさっぽろ東急百貨店が開業し、十一月二十六日には「ダイエーショッパーズプラザ」が道内一号店として南二条西四丁目に進出、翌四十九年六月八日には松坂屋がすすきの駅コンコース、ポールタウンと接続するかたちで開店した。このことは単に隣接するデパートとデパート、大型店と商店街の顧客の取り合いというだけでなく、大通、札幌駅前それぞれの地区内部の競争と大通対駅前という地区間の競争が併存するという複雑な構図を生んだ。
そんななか大通では、「積極的商策を伝統とする」(丸井今井百年のあゆみ 昭48)丸井が四十七年六月真駒内選手村売店跡地クリスタルタウンにマルイストアーを出店し、自らスーパー経営に乗り出すとともに、四十九年十月一日丸井マルサを開業し、翌年九月二十七日には大通新館を完成させ、東西線の開通と同時に大通からバスセンターへ至るオーロラタウンと並行するコンコースに面して店舗を展開することとなった。このため地下街を含めた三越、狸小路、丸井を回る「黄金回廊」から「南一条通」に比重が高まりつつあったショッピングコースに、新たに「大通側」が加わるとともに、五十一年以降オーロラタウンの通行量が減り、狸小路や西二丁目の二番街商店街への人通りも減少傾向にあった。そこで地下街では、競争力をつけるため開業一〇周年で早くもリフレッシュ工事に着手した。一方南一条から南四条へ至る駅前通方面では、昭和五十年八月には西武系の札幌PARCOが開業し、デパートとは一味違うファッションビルが進出した。また設計段階で地下街との連絡を考慮に入れなかったため、地下街からの顧客導入に失敗したコスモは、「寄り合いデパート」を脱皮して若者を顧客層に取り入れるべく、「東京原宿の路面店を縦に積み上げたファッションビル」(コスモ20年の歩み 平1)をめざし、五十一年八月二十八日改装オープンした。これに対し札幌駅前では五十三年九月一日、JR札幌駅前の複合ビル「札幌ターミナルビル」の核テナントとして、「札幌そごう」とエスタ名店街が開業し、駅前地区への集客力が増すとともに、東急、五番舘を交え駅前地区のデパートがまさに「三つどもえ」の戦いをくりひろげることとなった。五十四年二月一日にはすすきのを拠点としたためにショッピングゾーンからはずれていた松坂屋が閉店し、四月二十八日からは社名を「YORK松坂屋」としイトーヨーカ堂の資本傘下に入った。駅前では五十四年四月そごうの開店に最も影響を受けた五番舘が高島屋と人材提携する一方、翌年七月には月賦専門店緑屋が撤退した。また五番舘の経営悪化はすすみ、五十六年五月にはダイエーとの業務提携が基本合意に達したが「スーパー」との提携を嫌う動きもあって、結局七月に白紙撤回、五十七年二月に西武との業務提携に踏み切ることとなった。