(序は略)
天明三卯年水無月(六月)九日、小雨が降って止んだ後も、霧がかかったような状態で、何かが散っていた。何だろうと、硯の蓋・扇などに受けてみると、灰であった。灰が草木の葉に降り積もって、霜が降りたようだった。
信濃国の浅間嶽が噴火したと、人々が言っている。浅間嶽が噴火することは、
伊勢物語にも記されており、今でもたまに噴火するので、人々は驚かなかった。
文月(七月)二日、灰がまた降った。今回は薄雪のようであり、冴えた月夜のようであった。これは豊年の前兆だと言われるが、公が忌むことだと言う人もいる。当面、何もなかったので、心配する人はいなかった。
五日の昼過ぎ、また噴火して、板戸や襖が響いたので、また灰が降るだろうと見ると、大きな雲が一村を覆い、北西へたなびいたが、何ごともなく日が暮れた。
夜が明けて六日の早朝、起き出してみると、庭も籬(まがき)も白くなり、木や草はみな花が咲いたようになり、雪の朝のようで、めずらしいながめであった。大きな
宿場なので、家々から人が出て灰をかき寄せ、桶に入れ、箱に盛り、家へ運びこんだ。空はよく晴れて、日影でも暑かった。
今年は、三伏(夏の酷暑の期間)も思いがけず涼しかったが、このままよい天気が続けば、稲もよく繁るだろうと言っていると、午後二時過ぎにまた噴火した。今回は、これまでになく激しい噴火で、外へ出て見ると、南北は晴れ渡り、西北から東南へ黒雲が遠くまでたなびいていた。この雲の行く先は、どこまでも灰が降るだろう。古人が「遠近人のみやはとがめん」(伊勢物語)と詠んだ雲は、このような恐ろしい雲ではないだろう。ただ煙が立ち上る程度のものであっただろうなどと言っているうちに雲が広がり、たそがれ過ぎにはさらさらと降り出した。夕立かと思ったが、そうではなく、砂がおびただしく降った。真っ黒な空に稲妻が閃きわたった。これは異様だと言っているうちに、雷がおそろしく鳴り響き、浅間嶽より燃え上がる炎は、柳・桜の散りかかるようであった。一晩中砂が降り、雷が鳴りやまず、眠ることができないまま七日を迎えた。
早朝に見ると、前夜に降った砂より粗い白砂が高く積もり、板屋の石も見えないほどになっていた。往来のさわりになるからと、白砂をかき集めたところ、門ごとに季節はずれの雪の山ができた。ここらでは、このようなことは聞いたことがない。宝永(四年)に富士山が噴火したが、その時の様子もこのようであったろう。けれど、富士山は遠いので、この辺でそのようなことがあったとは聞いていない。人々は寄り集まって不気味だと言っていた。そうしているうち昼過ぎ頃に、急に日が暮れた。墨を摺ったような空から、長い稲妻が多数閃き、激しい雷が鳴りわたった。頭の上に落ちてくるように、あるいは地底に響くように、上下で鳴り合った。山は、ますます鳴り響き、震動し、板戸・襖はその響きで、はずれそうだった。
風も吹かないのに、なんとも言えない生臭い香りがし、鬼が出てくるのではないかと怖れおののき、途方にくれ、何も考えられなかった。この世はもはや終わりかと思ったけれど、どうしようもなかった。ただ、うつぶせに臥すだけだった。闇路を行くようで、何も見えないので、灯火をつけて集まっていた。たまに街道を通る人は、松明を灯していた。まったくの闇の世となった。
しばらくして噴火の音が遠ざかったので、頭を持ち上げて見ると、南側の障子は、空の色によって、紅く見えた。これはどうしたことか。このうえ火の雨が降るかと、生きた心地もしなかった。そうしているうちに、紅い色が少しずつさめ、ようやく人の顔が白く見えるようになり、夜が明けた。
板戸を開いて外を見れば、時間はまだ午後四時ころだった。鬼にまどわされたかと眺めていると、空は薄く黄ばんで、雪が降るような色だった。噴火は絶え間なく続いていた。雨は一滴も降らず、ただ砂だけが降っていた。笠に当たる音は、あられがほとばしるようだった。以前より大きな石が交じっていた。
いつまでこのような状態が続くのだろうか。このような異様な雲が出たときは、よそへ追いやるのがよいと、七尋ばかりの伊勢の御祓い、それよりもっと長い松明に、まといのようなものをかつぎ、いろいろな鳴り響くものではやし立て、鬼を縛ろう、
浅間山の火焼(ひたき)姥を捕らえようという声が騒々しかった。それぞれ耳をふさぎ、目をおおいながら、光に怖れることなく夜通し騒ぎ歩くと、噴火の音もそれに負けまいと鳴り響き、降る砂はいっそう荒々しく降った。今夜は一年に一度星が逢う夜であるが、思いがけず恐ろしいことになり、手を額にあてて、神仏たすけたまえと、経を読み、念仏を唱えて、夜が明けるのを待った。
ようやく八日になった。早朝見ると、以前の砂より黒く黄ばんだ砂が高く降り積もっていた。板ひさしが、砂の重みでたわみ落ちていた。壊れた家が多数あった。柱が折れ、壁がはがれ、傾いている家もあった。家が倒れ、梁の下から、かろうじてはい出て来た人もいた。
家が倒れるのを心配して、噴火・稲妻にひるまず、家の屋根へ上がって降り積もった砂をかき落とす人もいた。砂は、黒煙を立てて勢いよく落ちた。この音に消されて、笠に当たる音が聞こえなくなったので、雨になったかと見ると、大通りを行き来する人の蓑も笠も、みんな真っ黒だった。おかしいと、よく見ると、ひじりこ(泥)が降っていた。屋根に上がった人々も、田の代掻きをしたような様子だったが、皆逃げ下りた。もはや何処かは泥の海になっているだろうと怖れていると、しばらくして泥の降るのは止んだ。
払い落とした砂は、軒端と同じ高さになり、捨てに行く場所もなかったので、そのまま大通りへ引きならした。そのため、大通りを行き来する人の足のひらを見上げるようになってしまった。その日も暮れ、人々は疲れはて早く眠った。
明けて九日になり、少し心が落ち着いた。空は雲もなく、風もなく、霞んで日影も見えなかった。昨日払い残した屋根の砂を払っていると、白くつややかな毛の、長さ四・五寸ほど、あるいは一尺にあまるものが降って来た。皆がそれを拾った。
その日、噴火の合間に
前橋へ行った人が逃げ帰って来て、息せき切って、見たこともない恐ろしいものを見たと語った。
実政の渡しは、
利根川が狭まったところで、普段でも水の流れが速く、水深が深く、水の色も藍より青い。波打ち際では、水が砕け散っているので、少しの風でも舟は出さない。そして、高い場所に関所を設けて、見守っている。
その渡しへ行って舟に乗ろうとした時、対岸から笠を上げて水上を見るように知らせるので、何事かと見ると、川の上に二尋ほど高く、山のようにうねって、大きな大蛇が頭を並べて押し寄せて来た。あわてて、後を見ないで逃げ、ようやく高い場所に登って見ると、大蛇ではなく、根から抜けて流れて来た大木だった。すさまじい勢いで流れて来たので、何が流れて来たのか
見分けがつかなかった。
川水は、硯の海の色をしていて、三尋ばかりの火石が黒煙をあげて流れて行く際に、今を限りと泣き叫ぶ人の声がかすかに聞こえた。犬や牛・馬のわめく声も聞こえた。あるいは、家の棟に人が乗りながら流れ、たちまち水底に沈んだのであろうか、悲しい声を発して消え果てた男女の数は知れない。家は数しれず流れて行った。
急に水が出たので、機を織る台に乗り、腰に絹をゆいつけたまま流れていった人もいた。若い女性で、子どもを背負い、前にも抱き、屋根に上がり流されている人がいた。この女性は、子どもを助けてくれと、声を限りに叫んだ。しかし、舟がなかったので、どうしようもなかった。
少し川岸に近寄ったとき、さで網というものを差し出したところ、抱えていた子どもを網の中へ投げ入れた。網を上げて、その子どもを出すと、背中におぶっていた小どもも投げ入れた。女性は、感謝して手を合わせた。その女性を助けようと、流れに沿って十歩ほど行ったところ、火石が流れて来て押しかかり、家とともに川底に沈められてしまった。
次第に泥が押し寄せて来て、川も陸もひとつになったため、矢を射ったような早瀬の水も、流れが少しゆるやかになった。坤軸(こんじく。大地の中心を貫いていると想像される軸)が砕けて、世界が一時に泥の海になる時が来たかと、気力も魂も消えはて、腰も抜け、立つこともできなかった。
そのように恐ろしい中に、老いた母と幼い子どもを二人連れた若い男性が、母を背負い、子どもを捨てて岸をめざしたとき、母が我を捨てて、子どもを助けろと泣き叫んだ。ちょうどその時、長櫃が流れて来た。男性は、母をその櫃の上に乗せ、手を合わせて拝み、二人の子どものところへ戻り、二人を肩に乗せ、浪をかきわけ岸めがけて走ってきた。岸に近づくと、子どもを岸の上に投げ上げ、自分は急いで母を追った。その心がけが天に通じたのであろうか、かろうじて母に追いつき、母をも助けた。これを見て、少し元気が出て立ち上がった。
また、幼子を抱いた若い女性が、浮いたり沈んだりしながら流れて来た。岸に近づいたけれど、岸に上がることができずにいた。その幼子は死んでしまったようで、幼子を川へ捨てて、女性は岸へはい上がり、声を限りに泣き伏した。幼子は、我が身より大切だ、どうしようもなく悲しいとは、このことを言うのであろう。
このように悲しいことばかりで、目もあてられなかったと聞いて、涙が止まらなかった。この国に、このような水が出たのは、どこからだろう。草津の白根山から出たようだと言っているうちに、一日・二日が過ぎた。
川原湯というところへ行っていた人が帰ってきて、不思議にも助かってここまで来た。自分が見聞きしたことを語っても、他人は本当だとは思わないのではないか。水で家が焼けたということは、昔から聞いたことがない。
浅間山は水無月末から時々噴火していたが、北の方から大噴火した。震動は、数多くの雷が群れて落ちるようだ。大きな火石が、二十・三十と飛び上がり、二尋・三尋上がって落ち、また、下ら飛び上がった火石が、中途でぶつかって砕け散る。五尋・七尋の火石が飛び出るのと同様に、硫黄が流れ出して泥を押し出し、山河草木がそのままの状態で流れた。その流れの中で火石が燃え上がり、七尋・八尋の大木に火が燃え移り、空を焦がし、大地を動かし、焼け広がって押して行き、途中の村・家・草木はすべて焼け失せた。
泥の高さは七尋・八尋、岡の上で五尋・六尋、川辺は二尋・三尋あったという。泥に埋もれ、火に焼かれ、水におぼれて死んだ者の数は、この辺だけでも数え切れない。知らない地域で死んだ人は、数千万人に上るだろう。
牛馬も泥の内より頭を出して、まだ死んでいないものも、稀にはいたが、助けることはできなかった。水ではなく泥なので、舟が出せず、また泥が深かったので、行くことはできなかった。たまたま泥が浅いところがあっても、火石が燃えているうちは、熱くて足を入れることができなかった。焦熱地獄・大焦熱地獄の苦しさは、このようなものかと思われた。
ちょうどこの時、小笠原相模守が国元へ帰るため、碓氷峠の麓の松井田宿に宿泊していた。その翌日、牧野遠江守がこの道を通って国元へ帰る予定で、一宿隔てた安中宿に宿泊していた。噴火がなくても険しい碓氷峠の坂に、石砂が降り積もり、人の行き来が絶えたため、
宿場に六日留まった。このようなことは、あってはならないことなので、召し連れてきた人々に石砂を払わせ、道を作ったが、馬が歩けなかったので、歩きで越えた。身分の低い者も通らない道を、身分の高い方々が歩きで越えることは、気が重かったことであろう。
昔は、木曽の桟を危険なものの譬えにして、「命をからむ蔦かずら」と言ったが、よく治まった世の恵みで、今は通行の障害にならない。今回、
浅間山が噴火してしばらくの間、碓氷峠が通れなくなった。その昔、日本武尊がこの道を通って以来、このようなことはなかったであろう。
ここでさえこのような状態だから、坂本・軽井沢・追分の各
宿場は、石の降り方が盆を傾けて移すようで、家は半ば焼け失せ、残った家も屋根を打ち抜かれ、内部に石が積もり、人々は親を呼び、子を捜し、命からがら逃げ出し、無人の里になってしまった。
広野は草の色がなくなり、鶉の巣も焼けてしまい、きぎす(雉)も隠れることができず、猪の寝床も荒れてしまい、犬・狼は里へ出て、行き来する人を殺めたと、聞くだけでも身の毛がよだった。
杢橋は、川より三尋ぐらい高いという。しかし、水の勢いが強く、杢の関所をはじめ、その辺の村里を押し流し、桑田を海のようにしてしまった。これは山津波が急に押し出したからだという。
烏川も増水して、柳瀬の渡しも渡れなくなり、
利根川の下流は泥に埋もれてしまったので、水は分かれて低い方へ流れた。田畑・村里の区別なく、国境を越えて、本庄宿とほうしど(傍示堂)という村(埼玉県本庄市)の間を横切って。中山道の南側を流れて行った。
この水は、
福嶋村・五料の関所も跡形なく流してしまった。昨日までは立派だった民家の跡も、今日は川の瀬に変わってしまった。河岸は泥の入り江となり、高いところにある家々へは、近所の人々が寄り集まったが、三日・四日は食べる物がなく、飲み水にも困った。
「いかき」という竹で編んだ籠を泥水に伏せ、籠の目から洩れ出た水を飲んで、命をつないだが、風の音がすると、またも水量が増すかと心配し、雨の音を聞くと、またも石砂が降るかと怖れた。たまたま水難を逃れた地域から、知人が訪ねて行っても、泥が深く、近寄ることができなかった。
あるいは、大木の梢に上がり難を逃れ、二日・三日梢の上で揺られていたが、次第に根元がゆるんで大木が倒れ、水底に沈んだこともあった。また、運良く岸の上に跳ね上げられて、助かった人もあったという。そのときの気持ちはどうだったであろうか。
二三里、四五里流されたが、かろうじて助かった人がいた。しかし、家を流され、妻子をなくし、田畑を失ったので、生きているかいがないと泣いたという。二十歳に満たない女性で、十六里ほど流されたが、助かった女性がいた。仏の広大な慈悲に救われたのであろうと思うと、黄泉路へ行って帰って来たことより尊いと思われる。
空は毎日曇っており、月日の光もくっきりしていない。時々雨が降り、霧のように灰が散る。どのような山でも、山全体が噴火によって吹き飛ぶようなことはないだろうと思うが、今回降った
浅間山の石砂を集めると、
浅間山より高くなるのではないかと思われる。それなのに、いまだに石砂が降るのは、どのような天変なのだろうか。
灰が降ったところが、何十里になるのかわからない。
洪水が押し流した地域では、ほとんどが魂祭りをしない。知らない世界に行った気がする。まして、泥の入口に集まった人は、ここで命がつきるかと、男女とも髪を切り、阿弥陀仏を頼み、ただ空を見上げて泣いたが、泣く涙もつきたという。
異国には、このようなことはないだろう。日の本でも、このようなことは聞いたことがない。不思議という程度のものではない。