江戸から善光寺への道中
江戸から追分(軽井沢町)までは中山道、追分から善光寺までは北国街道です。その間を主に宿場をたどりながら簡潔に述べています。また、道中の名所や分かれ道についても触れています。
戸田の渡しにあった羽黒権現社は、『江戸名所図会』にも描かれた名所でしたが、今はありません。傍示堂(本庄市)は武蔵と上野の国境を示す堂から起こった地名だといいますが、江戸時代にはすでに神流川(かんながわ)が国境になっていました。軽井沢宿と沓掛宿(中軽井沢)との間には、「平葉(場)の原」と呼ばれる原野がありました。
善光寺町では、仏都としての繁栄ぶりに「驚歎」しています。全国から人の集まる善光寺町の繁栄は、道中のどの宿場や城下にも見られなかった特別なもので、長旅をして善光寺にたどりついた参詣者に善光寺のありがたさを実感させる光景でした。