○筑摩 洗馬

   16左  
郷原へ壱里半[善光寺道なり、]塩尻へ壱里三十町[中山道筋なり、]京師より東都迄六十九
駅の内、三十九駅に当れり、凡六丁程相対して巷をなす、諸侯交代の
目方を改むる役所を置るゝ事、東海道府中の如し、
 抑此駅ハ吉祖の深山幽谷を分凌ぎ、桔梗が原の曠野に出るの始なり、よつて木
曽の咽喉なりと謂ふ、繁昌の宿駅にして、遊女等多し、本陣の百瀬氏・志村氏
の林泉は中山道に稀なりとぞ、仮山泉水の幽趣奇石珍木の布置謂ん方
なく、往還の旅客も多く此所に休泊して詩歌を遺せり
 
 
   (略)
  
  
   20左  
神明宮[宿をはなれて右手の堤にあり、当所の産土神とす、天照太神を崇祀る、]
義仲馬洗水[太田の清水といふ、洗馬訳を出て、左の方にあり、太田村の内な
り、木曽義仲馬をあらひしより、今に此名あり、是より十八丁西に元洗馬あり、木曽川
にあづま橋をわたせり、古道といふ、]木曽川[是は中山道の木曽川にあらず、水
源は鳥居峠に濫觴して、本山宿の裏通りより爰に出、北流して所々の谷
川落あひて大河となり、松本の西にいたり、熊倉の橋辺より犀川といふ、]
肘松 洗馬を出て、塩尻の方へ別るゝ坂口にあり、太さ八尺ばかり、繁茂して四
方に枝を垂れ、旅人の笠を摺ほどなれども、官府よりの御沙汰として枝葉を払ふ
事を制せられ、其辺百坪ほど除地なりといふ、
是より桔梗が原にて、東ハ塩尻辺、西ハ木曽川端、北ハ松本のあたりまて平原
曠野なりしが、太平の御代と成り、鼓腹の農民専ら耘耕に力を尽して、聊
 
   (改頁)
 
   21左  
 
も不毛の地見へず、郷原までの間人家なく、又立憑べき木蔭もなし、旅人暑
気の砌は渇を凌ぐの用意有べし、此街道五六月の頃奥州南部辺
より牛の子を多く牽出るなり、程なく郷原宿にいたる、