[解説]

原町問屋日記(嘉永6年)
上田歴史研究会 阿部勇

原町問屋日記 「ペリー来航と上田」
 上田藩主松平忠優(忠固)はペリー来航のとき、幕府老中の座にいた。したがって、少なくとも来航の前年には、オランダ商館長クルチウスの提出した『別段風説書』からペリー来航の情報を得ている。
 嘉永六年六月三日のペリー来航以降、幕府の方針が定まらぬなか、忠優は海防掛に加えられも加えられ、開国論を主張する。また、老中として朝廷に対する幕府の主体性を確保しようと動く。上田藩の家臣に対しては、異国船が浦賀へ来航したので急な出陣もあるかもしれないから、その心構えをしておくように、と伝えている。
 ここに掲載した『原町問屋日記』から、藩主忠優の国元である上田城下の様子を知ることができる。
 ペリー艦隊が江戸湾へ姿を現してから十日余りを経た六月十二日、上田城下では「唐船浦賀へ来る」との情報が流れ、町はそのうわさ話で不安に満ちていただろう(1)。翌十三日には、藩から異国船騒動によって穀物価が高騰するだろうが、それに乗じて米をほかの地へ多量に売らぬように、穀屋などへ伝えるようにとの申し付けがある(2)。
 九月十七日になると、奉行から両町の問屋(原町問屋瀧澤助右衛門・海野町問屋柳澤太郎兵衛)が呼び出され、異国船来航対策としての費用がかかるので、町方から費用を調達したいと伝えられている(3)。
 十二月に入ると、藩主忠優から両町問屋や町年寄に次のような申し渡しがあった。もしペリー艦隊と戦闘状態になれば、世の中は混乱するだろう、人々が混乱しないよう問屋や町年寄は前もって心得ておくように、と。
 さらに、町から西洋流小筒二十挺を献上(鉄砲一挺を金七両余に換算し金納する)するなど、非常時(異国船来襲之義ハ、開国以来、皇国の御大事)への対応が数多くみられる。
 『原町問屋日記』には、以後もペリー来航に対応する上田町人の姿が記されていくが、農民の対応についても上田市立博物館に残された史料が伝えている。嘉永六年十二月の『異国船渡来ニ付献納籾取集帳』がその一つである。取集帳には、上田領上青木村の人々が、合わせて籾十五俵(九石)を上田藩に献上したことが詳しく(村民ひとり一人の名前と籾の数量が詳しく示されている)記されている。なお、上田藩は嘉永六年八月の段階で、上田城米三百駄を江戸表に送っている。さらに、常田村の鋳物師半田八郎右衛門には大砲の鋳造も命じている。
 このようにペリー艦隊の来航は、江戸から遠く離れた信州上田の町や村にも大きな影響を及ぼしている。『原町問屋日記』はじめ、村や藩の記録はその様子を伝えている。