家康は、真田の要請に応じた形で佐久小県の残徒討伐を名目に出陣し、最低限の構にせよ上田城も造ってやり、恩を売った形の天正十一年の五月の時点で、真田昌幸に沼田城の引渡しを命じ、北条へも受取るように伝えたとみられる。しかし、真田方はそれを全く聞入れない様子であった。そして、七月には真田の重臣で沼田城代であった矢沢頼綱らが、北条方からの使者を成敗、つまり斬殺するという事件も起こしており、上杉景勝はそれを賞している。真田方は、北条方への沼田城引渡しを、断固拒否したものであり、この時点で真田は徳川と断交とみてよい。従来言われていたように、天正十三年になって真田は德川と断ったというものではなかった。
ただし、一旦は上杉方へ再度の従属をしようとした様子の真田方であったが、矢沢など真田勢を上杉方に引き込もうとした前橋北条(きたじょう)氏が、九月には北条氏に降伏しており、このような事態もあってか、真田もこれ以後は確かに上杉氏に従属していた様子でもなかった。その後の真田氏は、徳川とは断ちながらも全くの敵対というものではなく、徳川・北条・上杉という三大勢力の間にあって、上杉寄りの姿勢ながら独立の形であったとみられる。
そして、天正十二年(一五八四)に起こった秀吉対家康の小牧長久手合戦のおりには、家康は真田の動きを警戒して、その押さえとして勝間(佐久市)城に配下の将士を入れてもいた。また、やはり同年には昌幸は、同じ小県郡室賀の領主室賀正武を謀殺している。これは家康から真田暗殺の命を受けていた室賀を、返り討ちにしたものでもあった。真田・室賀に限らず、大勢力の競合する狭間での、小勢力それぞれの立ち位置には大変困難なものがあったのである。