真田信之宛本多正信書状
真田信之宛本多正信書状

<史料解説>

真田信之宛本多正信書状   真田宝物館蔵

  慶長十六年(一六一一)六月十三日

 真田昌幸は慶長十六年六月四日、配所高野山九度山で死去した。享年六十五。智勇兼ね備えた名将であり、真田の名を上げた昌幸であったが、その晩年はわびしいものであった。信之は父の葬儀をしたいとして家康の側近本多正信に相談した。これはそれについての返事である。正信昌幸の死を悼むとともに、お弔いを、とは尢ものことではあるが、「公儀御憚りの仁」でもあり、「御諚」つまり将軍家の許可を得ないわけにはいかない、として当面は見合わせた方が貴公のためだと述べている。

<訓読>

  「真田伊豆守様御報 本多佐渡守正信」(切封端裏
  御親父様、高野に於て御遠行の儀、是非に及ばざる御事に候。然れば貴公御弔ひ成され度きの由、示しに預り候。尤もの御事に候へ共、公儀御はゞかりの仁に候間、御諚を得させられ候はではいかゞの儀に候条、いつにても御父子様へ御仕合次第、御意を得させられ、其の上御赦免に於ては御弔ひ成され然るべく候はんかと存じ奉り候。御尋ねに候間、貴公御ために候条、愚意の通り啓上仕り候。殊に高野に御座成され候ても、何事も無く御入り候へば、いづれ御国御赦免の儀、御袋様より節々仰せ下され候間、御仕合をためらい申し候処に、か様の儀、幾度申し候ても是非に及ばざる御事に候。御袋様・御内様へ御力落しの由、御心得に預るべく候。恐惶謹言。
   六月十三日     正信(花押)

真田信之宛城昌茂書状
真田信之宛城昌茂書状

<史料解説>

真田信之宛城昌茂書状   真田宝物館蔵

  慶長十六年(一六一一)六月十六日

 これも昌幸逝去という話を聞いての悔み状。城(じょう)昌茂は昌幸と同じく武田の旧臣で武田氏滅亡後は家康に仕えていた。それにしても、信之は若いころは大変病気がちであったようで、ここにもよくよく養生してほしいとの言葉が見える。例え片わになってでも家が続くようにとは、病気でというだけでなく、自重するようにという意味合いも込めているのだろう。

<訓読>

   追って、貴殿御気分能々御養生候て、たとへかたわに御成り候共、御家のつゞき候やうに御ひき候て下さるべく候。已上。
  房州様御逝去の由、爰元(ここもと)へ其の聞こえ候。是非に及ばざる次第に候。一度御目に懸かるべしと憑(たの)み年月を送り候へば、涙計りに罷り成り候。御苦身成され候事、一入(ひとしお)いたはしく存じ候。心事紙上に尽し難く候。恐々謹言。
   六月十六日     城和泉守 □(花押)
     真豆州様 人々御中