長野市公文書館 西沢安彦
博物学研究と『信濃博物学雑誌』
明治三十五年(一九〇二)六月、長野県師範学校の博物学教室で信濃博物学会の発会式が行われた。明治二十年代に羽田貞義・矢沢米三郎ら師範学校教員を中心に長野博物会が結成され活動していたが、長続きしなかった。ここにあらためて博物学研究の学術団体が組織されたのである。初年の入会者は五一七人を数えた。
「博物学」は、動植物や鉱物・地質などの自然物の記載や分類などを行なった総合的な学問分野で、生物学・地学が生れる前の呼称である。明治から昭和初期にかけて、教科の一つであった。県下では明治十年代後半から、植物採集、高山への登山などが行われはじめた。
明治十六年八月、大町の仁科学校教員であった渡辺敏(はやし)は、窪田畔夫(くろお)(十二年北安曇郡長就任)らと白馬岳へ登頂した。この登山は「自然の偉観に接せんとするのと、剛健心の満足を求むるにあった」とされ、近世までの信仰の対象としての登山とは異なる、近代的な理念にもとづく先駆的な北アルプス登山であった。また、十七年には矢田部良吉が戸隠山でトガクシショウマ(学名ヤタベニア・ジャポニカ)を発見している。
明治二十四年、中央気象台に勤務していた河野常吉(筑摩郡犬飼新田村出身・現松本市)は御岳の山頂・山麓に四〇日余滞在し、気象観測、地質・噴気孔調査、植物層の観察を行っている。じつに近代高山研究そのものであった。ウォルター・ウェストンが新潟県側から白馬岳に登頂したのは二十七年のことで、その四年後の三十一年八月、河野齢蔵(北安曇郡大町尋常高等小学校長・河野常吉の弟)、松岡邦松(後岡田姓・同郡七貴尋常高等小学校訓導)らが白馬岳に登頂した。一行は森林帯でトガクシショウマを発見し、白馬尻から大雪渓を登り、お花畑でウルップソウ・ムシトリスミレ・クロユリなどを採集した。白馬岳の最初の学術的登山であった。
明治三十五年五月、皇太子(後の大正天皇)が長野県師範学校へ行啓した際、生徒の田中貢一らが戸隠山の大洞沢からトガクシショウマを採集してきて、博物室で栽培した花を献上している(トガクシショウマは長野県師範学校の校章となり、現在は信州大学教育学部附属長野中学校の校章)。
このように盛んになってきた高山研究・植物研究などを背景に信濃博物学会は出発したのである。幹事長に矢沢米三郎(諏訪郡上金子村・現諏訪市)が選出された。会の目的は、「博物学ニ関スル事項ヲ講究シ斯学ノ普及発達ヲ図」ることとした。会の事業として①実物標本・器械・図書などの展覧・説明・批評、②演説・談話・討議、③研究旅行、④雑誌・図書の編纂・出版の四項目を掲げている。
幹事長矢沢は「発会の辞」で、「信州は理論の盛なる割合に実地の研究が伴」はず、教育学・心理学・哲学などの研究は努力するが、物理・化学・博物などの研究ははなはだ幼稚である、と指摘している。また、長野県は高山峻嶺、河湖が多く、山川・気候・風雨・草木・岩石・虫魚が複雑・豊富で、このように自然物に富める地方でこれを研究しないのは、天から与えられた自然を損なうものではあるまいか、と述べ、会をますます発展させていきたいと結んでいる。
博物学会の機関誌『信濃博物学雑誌』第一号は明治三十五年八月に刊行された。第三号の研究論文は「ライチョウ」(河野齢蔵)、「みやぐるま 一名長之助草」(矢沢米三郎)、「信濃特有植物(第三) はごろもそうに就きての研究」(田中貢一)で、ライチョウ・はごろもそうは、口絵に着色して掲載されている。第七号(明治三十六年十月)から第九号(同三十七年三月)にかけて、臼井勝三(東筑摩郡麻績村出身・岐阜県師範学校勤務)の「『メンデル氏』の法則」が発表されている。これはスピルマン(米国人)の論文の訳で、「メンデル則の発見は、現今の学界に於ける最大快事なり、(中略)園芸水産牧畜等の実業を益することの大なるや、計る可からざるもの」と述べている。メンデルの学説の再発見から三年目に、早くもメンデルの学説の日本への最初の紹介がなされ、信濃博物学会の水準の高さを物語っている。
大正二年(一九二三)五月、雑誌は三九号をもって廃刊となった。また、博物学会もこの年自然消滅している。博物学が動物学・植物学・鉱物学・地質学などの総称で、各分野の研究が進展し個々の学問領域として確立するにしたがい、博物学はその歴史的な役割を終えたのである。