手習師匠を招く

 『当家初代好古堂芝産一代記 全 小沢和徳誌焉』には、亀が南殿村に手習師匠として招かれる経緯が詳しく記されている。長文だが引用してみよう。
 一其後文化十四丁丑十月大出村井沢岡右衛門殿被参被申候者南殿村ニ師匠無之候ニ付御無心申南殿江御親公様御隠居仕事ニ御越御指南願度候 右内聞被頼参上致候と申 尤御出被下候ハヽ村ニ不限隣村之子供も集り可申と存候間何分御談示可被下と被申候故何レニも親類共へも咄其上御挨拶可仕と申而岡右衛門殿ハ御返し申候又一両日過て南殿金左衛門殿重左衛門殿改而招待ニ被参是非御頼申度両人惣代ニ而参り申候 最初子供少ク御執付之内ハ私共四五軒ニ而何角賄決而御不自由無之様ニ致シ只子供さへ御教へ被下候ハゝ私共寄合候而御世話之処ハ引受候間無御案事御越可被下と申被頼候ニ付近親ニも相談懸候処跡手習子供ハ喜次郎殿江譲り置而左様が宜候半与一決致南殿御両所へ約諾整ひ吉日を定メ可参と挨拶之上御両所ヲ御饗応申御帰し申候(下略)
 師匠を招くのは村人の総意ではなく、村の有者4~5軒の発意であり、子どもが集まらない間は彼らが亀の面倒を見るというのである。教育への熱意は村人の中から自発的に生まれてきたのではなく、教育の必要性を感じた村のエリート層の働きかけから始まり、やがて村内に浸透していったのである。一握りの在村エリート層と、それに応えて地域を移動する師匠から、幕末の動乱を乗り越えて村や地域を支える者たちが生まれてくるのである。
 最後に、初代芝産の葬儀に際し、小野村だけでなく他村から300人以上の人々が参列したことに注目したい。その多くが教え子である。また、亀の場合、彼が教えた4ヶ村総てから子どもたちが参列した。師弟関係と、同じ塾で学んだ子ともたちの横断的なつながりは村を越える広がりを持つのである。しかも、貧富の差や村内での身分の違いよりも塾生(今日言うところの「同窓生」)としての連帯感が優先されるようになれば、それは身分制に根拠を置く社会秩序を突き崩すとなる。和徳の教え子たちが明治という社会をどのような価値観と連帯によって生きたかは、幕末に群生した信濃の私塾・寺子屋の果たした歴史的意義の解明にとって欠かせない作業となろう。
 
 なお、小沢家と小沢和徳に関しては『長野県教育史 第一巻総論編』『同 第八巻史料編二』、『辰野町誌 歴史編』に詳しい記述がある。また、ブライアン・プラット「近世信濃における手習師匠が果たした役割」(『長野県立歴史研究紀要第4号』(1998年)は、手習師匠としてだけではなく、幕末を生きた一在村知識人の生き様に迫る労作である。