8
今度私は木曽の山林を視察に出ました序(ついで)に本校の模様を伺ひたいのであつて、先月28日東京を出発して名古屋御料局から段々木曽へ這入(はい)つて、小川(おがわ:地名。上松町小川)の伐木所等を視察して本日此処(ここ)まで来たのです。当山林学校は学校のある位置から申せば極めて良いのであつて、之れより外は山林学校を設けるよき場所
(改頁)
はないのである。元来林業も学術上より得たる智識を実地に応用するのであるから此木曽は誠によい地である。今日諸君が此地に於て充分に学と術とを研究して、将来有望なる林業に従事する為めに勉強しつゝあるから、他の学校に比して成蹟が宜しからうと信じます。諸氏が卒業の上山岳を跋渉(ばっしょう:山を踏み越え、川を渡ること)し、宜しく社会の為め大に活動せなければならぬ。私の専門で習つたことを何か話しをしたいが、なんにも之れと云ふことがないから、雨と山林との関係に付き少々話します。
抑(そもそ)も森林と云ふものは多く高い処にあつて低地には少ない。而(しこう)して高地には水蒸気が多きものであります。そこで此の水蒸気と言ふものは、鍋に水を入れて煮沸するときは空気中に飛散す。此空気中の水蒸気は熱ければ多く寒ければ少ない。故に森林の内外を比較して見るに、内は冷(ひやや)かで外は熱く森林内外の温度の差と言ふものは、摂氏寒暖計1度乃至(ないし)6度の差である。処(ところ)で、ある作用に因(より)て水気森林内に入り一部は林内の寒気の為めに水蒸気湿潤となる。此度は林外の水蒸気を100度とすれば、森林内に入れば90度となり、森林に入り10度は雨となりて落下するのである。此れ森林の働きに由(より)て雨を求めたのである。
然(しか)るに此の森林と雨との関係に付ては種々の奇談がある。茲(ここ)に御話しをするのは三重県に於て平地に続いて突き出て居る山があります。此の山には多芸神社と云ふ社があつて、此の神社へ金を上り(たてまつり:献納する)、金の御幣(ごへい)を100円も200円も出して買ってくる。之れ其地は夏期になると森林がないため、雨の降ることが少ない為め水がなくつて農業をなすことが出来ないから、如斯(かくのごとき)妄想よりして100円も200円もの大金を出すのである。而して此の辺の老人に聞けば、あの多芸神社のある山に雲がかゝれば必ず雨が降る、あゝ有り難いと云ふのである。之れ森林が有れば雨が降ると言ふ大切なことは知らないのである。又米を取るにも水がなければならぬ。総(すべ)ての農産物を繁殖するにも此の水が必要である。而して此の水を得んとするに就ても、森林と水との関係が密接であるのであると言ふことを知らないのである。これであるから只今迄の処では森林を伐採するばかりで、伐採したならば直(すぐ)に其の跡地へ造林することをしないのであつた。本校生徒諸君も卒業後は学理を実地に応
(改頁)
用し、山林事業に向って益々(ますます)尽力せられんことを希望します。