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ヒ ー ロ ー 生
肥沃の平野に農業行はれ山地に林業の起るは之れ必然の状態にして、殊に四面山もて囲れたる我信州、就中(なかんずく)諏訪は其地勢恰(あたか)も慴鉢(すりばち)形にして底とも云ふ可(べ)き処(ところ)に彼(か)の清き諏訪湖あり。又鉢の周囲とも云ふ可き処に守屋・立科等の諸山を連ぬる山脈にて囲れたり。
斯(か)く山国たるからには太古は随分森林も繁茂し、又野獣も多く棲息して居(お)りし事と想像せらる。
然(しか)るに人智の発達と人民増加とに原因してか、年々伐採せられ殊に維新頃には乱伐に乱伐を重ねて(某氏の言)、遂に今日の如き哀れなる状態を呈するに至りしなり。
然るに近年に至り町村、諸組合、学校等にて森林の直接間接の効果より植林の必要を感じ人工造林を所々に施すに至れり。殊に小学校等にては日露戦勝紀念として町村より林野を寄付せられ、教員引卒の下に生徒の造林をなすもの多し。
植栽する樹種は大部分赤松・黒松・落葉松等にして稀に杉・扁柏(ヒノキ)等を見る。
植付人夫は町村の負担にて派遣せられ造林地に穴を堀り、其れに生徒をして各自思ひ思ひに植付しむるなりき。
然るに其堀方たるや実に無頓着にして言語に現す事能(あた)はざるなり。
次に苗の供給は今は兎角(とかく:ともかくも)、以前は県苗圃より町村役場へ無代或は廉価にて払下げられたるものを更に企業者に分配するの方法あり
(改頁)
て植付の途(みち:手段)を得しにもかゝはらず、現今は彼地(かのち)の林木を伐採する事多量にして比較的植林事業の発展し居らざるより、彼の吉野の林業の如く伐採するや否や跡地に造林すると反対に、伐採跡地をば長年月放置して雑草灌木等を妄りに生ぜしめ、敢て顧ざるは如何なる故か。他にあらず要するに森林思想の発達尚(なお)幼稚なるに依るならんか。
殊に特筆す可(べ)きは彼地の養蚕製糸の業大いに発展せるが故に、伐採跡地は勿論伐採して迄も開墾して桑畑となし、以(も)つて蚕児の飼料に供する次第にして、其面積たるや実に広大にして、前記の以外に如何なる山奥とても、苟(いやしく)も平坦なる原野たるからは必ず行きて開墾するの有様にして、森林荒廃は愚か林地を縮少するの一大原因なり。
次に林木の伐採過量は如何なる原因に基か。そは即ち諏訪方面に於て一般に薪炭材の欠乏に基くと断言するも敢て過言にあらざる可し。何となれば其伐採する樹種の多くは、赤松等の20年生位のもの及び楢(ナラ)・クヌギ等の雑木にある点より推察するを得可し。
然して彼地方の薪炭材の欠乏の原因の著大なる実例としては、今日は多く石炭を使用すれども、以前は製糸事業には前記樹種の割木を使用し供給は諏訪地方のみにては不足せるを以つて、遠く南安方面(注19)に迄も供給を仰ぎつゝありしなり。
如斯(かくのごと)く薪炭材の欠乏は遂に森林の過伐を促すに至れり。之れ実に諏訪方面の山野一体を荒廃せしめたるに多大の影響を及ぼしたる一大原因なりとす。
然れども其跡地に直ちに苗を植裁したらんには、或は以つて彼の地の森林衰亡の恐れを未然に於て防ぐ事を得たらんか………。
右の如(ごと)き状態なれば、一般民家の薪炭材を得る途としては僅かに木曽支庁諏訪出張所の管轄にかゝる東俣(ひがしまた)御料林のみにして、他には供給する程の森林なし。故に建築材等の如き良材に至りては山梨県方面に需(もと)むる次第なるも、此中央線の開通後は当木曽方面へも供給を仰ぐに至る可しと信ぜらる。
嗚呼(ああ)森林荒廃は単に国家の為に有益なる土地をして、無益となして損害を与ふるのみならず、材の不自由を来し且吾人の毎日習ひ且恐懼せる洪水・山崩れ等も此森林存否の有無に大関係あるものなれば、河川の堤防等を築く費用あらば、挙(こぞ)つて植林事業の費用として投入せられ、且事業の第一歩として森林を仕立ん事を望む次第なり。(終り)