文苑(ぶんえん:注40)

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     我 徒 の 本 領

          西 野 入 徳(注41)
我が輩は木を相手の山人である。理論得手の詭弁家ではない。故に黒いものを白いと云ひ、御都合次第で更に青くも赤くも乃至(ないし)は紫にもなし、又或は人を馬車にして馬を別当(べっとう:乗馬の口取り)にしたり、杢兵衛(もくべえ)を太吾作にして、太吾作を杢兵衛にしたりする様な事をして、人をインチャント(注42)する詭術(きじゅつ:人をあざむく手段)は知らない。其代りは花咲き秋は登る事を知るが故に、吾等はになると木を植え秋になると実を集むる。三角形の内角の和は二直角なる事を知るが故に、之に依(より)て測量もすれば計算もする。敢てニウトンの引説を聞かなくとも、山の上から石を転がすと谷へ向つてころんころんと落ち行く事を知るが故に、吾人(ごじん:我々)は此事実を応用して伐木もすれば運材もする。
乞食(こじき)の子も3年経てば3つになる事を知るが故に、100年後の収益が果して予期の如(ごと)くなるや否やと取越し苦労する事を止めて、安んじて植林に全を尽す。
我輩は学者ではない。鍬(くわ)や鎌を友とする労働者である故に、世の学者先生が口角泡をとばして机上に論争を逞(たくまし)ふする間に、吾人は去つて徐(おもむ)ろに是を山と川と鍬と鉈(なた)との示す、黙せる而(し)かも決して偽らざる事実に依つて其真理を確める。
我輩は道学者(注43)ではない。鶏犬の声も知らない深山幽谷の樵夫(きこり)である故に、倫理学とはどんなものやら、哲学とは何の事やら一向知らない。けれ共(ども)花国の責任ある平民たるの自覚と万物の霊長たる人類の尊貴とを解するが故に、之れに依つて吾人は大に自重する。
吾等は黙々たる山と潺々(せんせん:注44)たる谷との間に人と為るが故に、至つて撲吶(注45)であるけれども、口に蜜持つ蜂は尻に針ある事は知るが故に、吾人は仁少き好言と令(注46)とは、之れを卑下(ひげ:いやしめ見下すこと)して朴素(ぼくそ:かざりけなく、ありのままであること)なる直言を貴ぶ。
又かゝる蜜共の集る所には華麗なる花の下に恐ろしき刺を隠す薔薇や、七重八重花は咲け共結ぶ実とては更になき山吹のたぐい多き世に、は百花に先んじて吾等に芳香を送り、夏は又々しい果実を以て吾人を喜ばする梅の如きもあるを知るが故に、吾人は此世に就いて決して失望しない。たとへ世は偽善者と才子の跋扈(ばっこ:勝手気ままにふるまうこと)する処(ところ)となり、額に汗する吾等樵夫は馬鹿と云はれ様が縁の下の持とならうが、そんな事には毛頭(もうとう:少しも)頓首(とんしゅ:頭を地につけ敬意を表すこと)するに及ばない。唯一生懸命に種を蒔いて木を植えればそれでよいのである。