松浦武四郎の記録

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 松浦武四郎は弘化2(1845)年28歳の時江差、函館を訪れて以来14年間蝦夷各地を調査し、蝦夷(北海道)、樺太千島の地図を作成したり、蝦夷山川地理取調図や北蝦夷地、西蝦夷地、東蝦夷地の紀行、地理、風土等の詳細な記録を作り上げたが、安政5(1858)年の『十勝日誌』に、「穴居址三十余在、土人は小人の跡と言へり……また、ここより雷斧、石土器の缺(けつ)出るよし、余も二枚を得たり」と述べているが、これほど詳しく北海道各地を観察し、調査した記録にも蝦夷(アイヌ)が石器を使用したということは書かれていない。同じく彼が著した『西蝦夷日誌』にも海岸や河川に近い丘陵に穴居趾何個があるという記事は見えるが、『十勝日誌』と同様に石、土器が出ると書かれているだけで、アイヌのものという判断はしていない。
 武四郎は北海道の探検家として有名なばかりでなく、考古研究家としての著作も残しており、代表的な『撥雲余興(はつうんよきよう)』1、2集には、出土品の図や寸法、考察が書かれていて、明治11年に刊行された1集の中に、函館の尻沢辺村から掘出された石器について次のように紹介している。 未全雷斧 石鋸 砥石
 三品共に箱館尻沢辺村(シリサワベ)にて掘出る処なり。雷斧(ライフ)は玉造石の下等なるもの、鋸と砥石は灰白色堅剛(ケンカウ)石質あらし、沙(砂)水かけて挽(ヒ)く時はよく切れまた能磨るゝ物也。此の法を樺太(カハフト)タコイ土人に審(タヽス)にさして陸(睦)ケ敷事ならず、其沙の質に依て切るにも磨も遅速有と。此砥石今樺太には往々見ゆ。又東地モロランなる会所のふしんの時も五、六枚と鋸三、四枚を掘出しぬ、然るに此玉造石の類は今北海道に見ざるに、是を此地にて作り用ひしこと不審なり。是等の物出しによりては
 
 仁明天皇紀承和六年(八三九年)冬十月巳乙出羽国言去八月廿九日管田川郡司解儞此郡西浜遠府之程五十余里 本自無石而従月三日霖雨無止雷電闘声経十五日乃見晴天時向海畔自然隕石其数不少或似鋒 略下
 
 その後元慶八年(八八四年)九月廿九日、また仁和元年(八八五年)六月廿一日出羽国秋田城内に雨ス石鏃ヲ等のことも偶言たる事しらるべきなりと。
 明治十年丑の春雷の発声のころ 弘誌

松浦武四郎撥雲余興』″箱館尻沢辺の雷斧・石鋸・砥石″