武四郎は北海道の探検家として有名なばかりでなく、考古研究家としての著作も残しており、代表的な『撥雲余興(はつうんよきよう)』1、2集には、出土品の図や寸法、考察が書かれていて、明治11年に刊行された1集の中に、函館の尻沢辺村から掘出された石器について次のように紹介している。 未全雷斧 石鋸 砥石
三品共に箱館在尻沢辺村(シリサワベ)にて掘出る処なり。雷斧(ライフ)は玉造石の下等なるもの、鋸と砥石は灰白色堅剛(ケンカウ)石質あらし、沙(砂)水かけて挽(ヒ)く時はよく切れまた能磨るゝ物也。此の法を樺太(カハフト)タコイ土人に審(タヽス)にさして陸(睦)ケ敷事ならず、其沙の質に依て切るにも磨も遅速有と。此砥石今樺太には往々見ゆ。又東地モロランなる会所のふしんの時も五、六枚と鋸三、四枚を掘出しぬ、然るに此玉造石の類は今北海道に見ざるに、是を此地にて作り用ひしこと不審なり。是等の物出しによりては
仁明天皇紀承和六年(八三九年)冬十月巳乙出羽国言ス去八月廿九日管田川郡司解儞此郡西浜遠府之程五十余里 本自無レ石而従二月三日一霖雨無レ止雷電闘レ声経二十五日一乃見二晴天一時向二海畔一自然隕レ石其数不レ少或似レ鋒 略下
その後元慶八年(八八四年)九月廿九日、また仁和元年(八八五年)六月廿一日出羽国秋田城内に雨ス二石鏃ヲ一等のことも偶言たる事しらるべきなりと。
明治十年丑の春雷の発声のころ 弘誌
松浦武四郎『撥雲余興』″箱館尻沢辺の雷斧・石鋸・砥石″