組織的研究へ

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 考古学の研究が、個人から研究機関あるいは組織によって行われるようになったのには、遺跡のもつ研究素材がこれまで遺物といっていた石器や土器ばかりではなく、地質の項で述べたように、木炭や貝殻などに含まれる14C(放射性炭素)による年代の測定、墓壙(こう)内の燐(りん)分析による対比、遺物を含む有機的土壌中の花粉分析による植生の究明、骨角製品の材質がどのような動物や魚類のどの部分を使用したものか、貝塚中の貝殻や動物の分類による自然環境の復原などといった、これまでの考古学以外の専門的な分野の研究が要求されるようになったことからである。また、昭和24年に法隆寺の金堂が焼失したことから、翌年文化財保護法が多くの点で改正され、埋蔵文化財もいたずらに発掘できなくなったことも挙げられる。
 当時市立函館博物館(武内収太館長)は積極的に調査活動を行い、旧石器の遺跡では磯谷郡立川遺跡、山越郡大関遺跡にも取組んだ。
 樽岸遺跡の資料整理には吉崎昌一が当り、立川、大関などの遺跡にも引続いて旧石器文化の解明に活躍した。また、北海道旧石器文化編年の基礎づけとなった白滝遺跡の研究も吉崎が中心であった。昭和30年代には市立函館博物館では尻岸内町の恵山貝塚、日ノ浜遺跡、古武井溶鉱炉跡、森町森川貝塚など、縄文時代から歴史時代に至るまで多くの発掘調査を行っている。こうして渡島半島各地の遺跡調査が市立函館博物館によって実施されるようになった。昭和43年になると函館空港拡張整備事業に伴って行政調査が実施された。函館空港遺跡第4地点は遺跡範囲も広く、約1万5000平方メートルの広さに縄文時代前期の集落跡がある。この調査には函館市教育委員会が主体となり、調査団が編成された。遺跡からは60基以上の住居址と、貯蔵穴と思われる遺構20基が確認され、函館で初めて縄文時代の大規模な集落が明るみに浮かび出た。しかし、市街地の拡大に伴う開発と埋蔵文化財の保護とは両立しない。昭和45年には函館市日吉遺跡、昭和47年には函館圏流通センター建設用地内の西桔梗遺跡などの発掘調査が続き、学術調査から行政発掘調査の時代が訪れて来た。今日のように開発が進めば、未調査の遺跡がそのまま姿を消してしまうこともあるであろうが、函館市日吉遺跡のように、ストーン・サークルの部分が覆土保存され、将来遺跡公園として残そうとする試みも行われている。

函館空港遺跡(昭和43年)