日本の先土器文化

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 昭和24年に群馬県の岩宿遺跡から旧石器が発見され、先土器文化という名称もできた。それまでは、日本の先史時代は中国や沿海州、シベリアの旧石器文化や中石器文化の影響を受けて新石器時代の縄文文化が成立したものと考えられてきた。縄文式土器の古い型式の土器は底が尖っていて(尖底土器)、東日本では函館の住吉町式土器のように貝殻で文様が付けられ、またこれと共に網の錘石が多量に出土することから、最初に日本列島に住んだ人たちは漁労民族であり、航海しながら定住したとも考えられていた。縄文時代の初めの西日本では東日本と同様に底の尖った土器があって、押型文という、棒状の施文具を土器面に回転して付けた文様の土器がある。関東地方で岩宿の旧石器が研究されていたころ、神奈川県の夏島貝塚や武蔵の大丸遺跡で貝殻文の尖底土器より古い時期の撚糸(よりいと)文の尖底土器が発見され、縄文文化の起源が再検討されるようになった。
 昭和29年、芹沢長介は『駿台史学』に縄文文化の発生と無土器文化についての所論を発表した。岩宿遺跡、権現山遺跡に旧石器時代のハンド・アックス(手斧)が出土していることやナイフ形石器、切出形石器などこれまでの縄文文化には現われなかった石器の存在を挙げて、縄文文化以前に″無土器の文化″があることを述べている。当時学界では日本に旧石器の存在を認めようとしない学者が多く、反響は大きかった。若手の研究者は長野県野尻湖底遺跡や茶臼山遺跡、東京都の茂呂山遺跡等を次々に調査し、関東ローム層から土器を伴わない石器群の遺跡を発見した。日本の考古学における新しい研究分野の追求熱は急速に高まり、西日本では岡山、大阪、香川、福岡等においても旧石器の存在が確認され、東日本でも新潟、山形、秋田、青森、北海道の各地に同様な発見があって全国的に研究成果が発表された。
 無土器文化の存在が地質学との関係で論じられてきたことはいうまでもないが、石器の製作技法や形式が旧石器文化のものであり、編年的にも資料がまとまり、土器が出現する以前に石器文化があったことは疑う余地がなくなった。かくてこれらの文化は「無土器文化」、「先縄文文化」あるいは「先土器文化」と呼ばれるようになった。
 また、長崎県、愛媛県、新潟県、山形県などで縄文式土器より古い土器が旧石器時代の終りの石器群と共に発見され、14C(放射性炭素)による年代測定の結果、1万2000年前に土器が使用されていたことがわかった。この年代は中国などの土器出現の年代よりはるかに古く、日本列島の土器の起源が世界で最古ということになり、話題となっている。
 先土器文化の研究と共に日本では氷河時代の研究が進んでいる。日本列島の成立や火山活動ならびに動物化石や植物の花粉分析による生物の移り変わりと気候の変遷などの面における研究である。特に、人類が登場する地質時代の第4紀の研究会があって、国際第4紀研究学術会議(INQUA)には考古学者も参加して業績を挙げている。
 北海道には氷河時代の終りにマンモス象がいた。旧石器時代のシベリアではマンモス象の牙や頭骨で家の骨組みを作って生活していたことがあった。長野県の野尻湖底遺跡ではナウマン象やオオツノジカの骨などと共に石器が発見されている。こうした動物相あるいは植物相と人類との関係について調査を進めてゆくことも重要なことである。