この土器文化が最初に発見されたのは大正14年で、東北大学医学部の長谷部言人、山内清男によって青森県北津軽郡相内(あいうち)村(現市浦(しうら)村)オセドウ貝塚と、三戸郡是川(これかわ)村(現八戸市)中居遺跡が発掘され、ここから出土した土器に円筒土器の名称が付けられた。人類学者が貝塚を発掘したのは、石器時代人骨の発見とその時代の研究とが目的であった。円筒土器は遺跡の下層から出土するものと上層からのものとでは土器形式に違いがあった。長谷部、山内は出土の土器を分類し、下層から出土した土器を円筒下層式、上層の土器を円筒上層式と呼び、山内はこれらの土器形式を他の土器形式などと比較研究し、編年的に円筒下層式をAからD式に、円筒上層式をもAからD式に細分化した。円筒下層式を縄文時代前期に、円筒上層式を縄文時代中期に編年付けたのは山内である。
円筒下層式は器形が樽形か円筒形で、胎土に植物繊維の混入がある。前半のA、B式は道南地方において編年的にAからB式に移行するかどうかは疑問もあるが、B式には頸部の粘土の隆帯が顕著で、上部には何重にも結束した縄文原体を回転して波形の縄文や撚糸圧痕文などが施文される。体部は単節の縄文や複節の縄文などと、異状斜縄文を施文するのがあり、ときには縄文の条が縦走するものもある。また、底部の揚げ底部分に縄文が付いていることもある。器形は概して単純、大形で、高さが60センチメートルほどの土器もある。後半のC、D式は、頸部の隆帯はそれほど顕著でなくなるが、文様は口縁と体部では明確で、撚糸文による文様が多くなる。C式は青森県などにあるが、函館周辺など道南地方ではあまり見られない。D式は、体部に縄を棒などに巻き付けた施文具によって木目状の撚糸文や杉綾(すぎあや)文が付けられる。口縁には円周を4等分して山形や波状口縁にした土器もあり、口縁部の文様帯には山形、波状口縁をもとにした撚糸文の装飾が付けられる。
円筒上層式は、器形に変化が見られ、装飾化する。円筒下層式に見られた胎土への植物繊維の混入がなくなる。 A式は口縁に山形、花弁状の突起があって外反し、あたかも花が開いたような形になる。頸部に隆帯があって口縁は撚糸文や縄の圧痕文があり、体部は単節の斜行縄文で複節は見られなくなる。B式は、縄文飾りが華やかで、粘土紐を伴い、紐状の粘土飾りにも縄文が付けられる。口縁は花弁状突起で、胴部に膨らみをもたせている。口縁部の飾りに粘土紐を貼(ちょう)付する意匠は、あたかも縄飾りを粘土紐で表現しているかのようである。粘土紐で飾った空間部には縄をループにして先端を押圧する馬蹄形の縄文が配列されている。体部文様は羽状縄文が主である。C式は、文様も器形も簡素化される。このころから大形の土器が減少し、形態は花弁状突起を残すが、口縁から体部にかけての文様が広がり、粘土紐を主とする文様で、縄の馬蹄形配列文が竹管刺突文に変わる。粘土紐に付けられる縄文も擬縄文となる。口縁の花弁状突起に瘤(こぶ)状の特異な粘土飾りが付いたり、透(すかし)穴のあるものも現われる。体部の文様は単節斜行縄文である。D式は、C式と器形がそれほど変りないが、花弁状突起は退化するようになる。粘土紐による飾りも擬縄文を付けていなかったり、粘土紐の空間部に竹管刺突文の配列を略したりして文様が簡素化する。しかし、口縁部が外反し胴部に膨らみを持つ器形の様式が生かされ、体部の全面に斜行縄文や縄の結束による波状文を施文し、口縁部に粘土紐を貼付して装飾したものもある。
円筒土器文化は、土器形式の編年で円筒下層式から円筒上層式へと移行するが、どこで形成されたかは明らかでない。初期の遺跡分布が津軽海峡をはさんで北海道では函館周辺、本州では青森に限られていることから、円筒土器文化の発生が海峡を中心に考えられる。近ごろでは函館で大規模な集落が発掘されているので、遺跡規模の比較から、あるいは函館周辺で円筒土器文化が形成されたのではないかと考えている人もある。土器形式で円筒上層のA式、B式になると、文様が豪華になり、器形も変化する。遺跡数も増加し、B式が石狩地方や勇払地方まで分布し、更に地方化して焼尻島、礼文島、旭川、名寄、日高の様似まで広がって行く。道東北部では円筒土器に似た大形の土器が分布しているが、これは円筒上層式の影響によって形成したものでないかとも考えられている。本州では東北地方南部の大木式土器文化と接触して円筒土器の様相をとどめなくなってしまう。
貝塚の分布図