乱後の箱館

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 コシャマインの乱後の箱館地方の状勢を見ると、小林良景の戦死によって、その子、小林弥太郎良定が衣鉢を継いで志海苔にあり、河野政通も箱館を回復し、また湯川と志海苔の間には、良景の2男小林二郎左衛門政景の子、小二郎季景が与倉前の館を築いて居住したと伝えるが、政治・交易・経済が、具体的にどのような経過をたどってきたものかほとんどわからない。ただこうして約50数年間の平穏が保たれてきたが、永正9(1512)年4月、東部のアイヌが再び蜂起し、箱館・志海苔・与倉前の前記3館を攻略、当時館主であった箱館河野弥次郎右衛門尉季通をはじめ、志海苔館の小林良定、与倉前館の小林季景はいずれも戦死した。更に茂別館下国家政も、これよりさき文亀元(1501)年に没し、孫の下国八郎師季が嗣いでいたが、これまた「夷賊に敗続」して松前に逃れ去り、いわゆる東部箱館を中心とした和人の勢力は完全に潰滅を告げるに至った。かくてその子孫は、志海苔の3代小林三郎右衛門良治が永正11年松前に移り、与倉前小林季景の子小三郎景宗は、同12年蠣崎光広に臣事し、また河野季通の1女(3歳)は、乳母に負われて松前に逃れ、後に蠣崎季広(松前家4代)の室になったという。なお、これらアイヌの動乱は諸館の統一をもくろむ信広父子がアイヌを使嗾(しそう)して起こさせた策謀という説もある。