藩制初期の交易

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 しかしながら、近世初期から元禄・享保期ころまでの箱館における船舶ならびに交易の状況については、いまのところ遺憾ながらこの間の事情を明らかにする史料に乏しく、その実態はほとんどわからない。藩制初期の蝦夷地の商品流通は、早くも城下福山や江差に進出した特権的な近江商人団の独占するところであり、箱館への進出は全く見られなかった。そのため当時交易は福山(松前)・江差を中心に発展していた。
 たとえば天和2(1682)年の著述といわれる『遠目鏡』には、敦賀松前志摩守船の船宿として、岐阜屋六兵衛、米屋治左衛門の2店、江差宿江野多郎右衛門、やねや与兵衛などの名前や、松前物問屋3軒のことが見られるにもかかわらず、箱館の産物を専門に扱う問屋は1つも記されていない。こうしたことは、この時代の箱館港を中心とする交易が、いまだそれ程発達していなかったことを示しており、従って松前三港の1つといっても、藩制初期の箱館は、流通担当商人の性格と松前藩の再生産構造の特殊性から、松前や江差ほどの発展をみることができなかったと思われる。
 しかもこのことは同時に、三港とはいっても、そこでの商品流通のあり方が、それぞれ異なっていることを意味した。すなわち、城下福山(松前)は、特権商人ともみられる近江商人の居住するところだけに、藩財政と密着した港となっていたし、流通商品の性格も、いわゆる場所持家臣の給地産物(交易品)および領主蔵物を中心としたものであったのに対し、箱館は地場産物であり、中でも昆布の流通を中心としていたものと考えられる。それがため箱館をとりまく生産構造も、小零細漁民による昆布採取業を主体に展開しており、これまた江差や松前とは、その性格が著しく違ったものになっていた。このように箱館を支える背後地域の生産構造の特殊性と流通担当商人の性格の相違が、先の敦賀問屋には箱館との恒常的な関係を持つことができないという結果を招いていたのである。