沖ノ口取締

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 箱館における沖ノ口業務としてみられるのは、当初は元禄16年に定められた酒役(さけやく)改めだけで、その他の沖改めなどは行われなかった。そのため箱館から他国に赴く船舶は、すべて城下松前に至り、沖ノ口番所の許可を得なければならなかった。この沖改めを亀田番所で取扱うようになったのは、享保15(1730)年5月からである。すなわち、
 
先達て与惣治方迄、時右衛門申達し候は、箱館沖改と申す事これなく候。尤も酒役改これあり候得共、沖改これなく、これによって旅人又は御法度物出入等これ有り候得ば如何わしく候間、只今迄酒役仕り候者共へ、沖改仕り候様仰付けられ度き旨、尚又地船向地渡海の節も此方へ罷越し沖出御判形取り候。左様これ有り候ては御百姓迷惑に及ぶは勿論、間違などこれあり候儀共にて宜しくこれなき由。これによって地船の向地等へ参り候節、御番所より御判形相渡したき旨、兼て申達しおき候に付、内記御聴達し候処、御尤もに召し置かれ、右の通り致すべき旨仰出され候。
(『函館区史』)

 
とあって、この年から出入船舶および旅人の沖改めが行われるようになった。また、右の文中御法度(はっと)物とは、他国に対する輸出輸入の禁制品で、享保14年の記録によれば、輸出法度の物品は、米・酒・味噌・塩・大豆・小豆・麦・蕎麦・新物・古手物・木綿・綿・植木・銭・鉄・板柾および他国から積み来る材木等で、その多くは他国から輸入する品物であった。
 次いで享保20年松前沖ノ口役所から亀田奉行に対し、出入の船舶・旅人に関し、左の通達があった。
 
      御定目
一 当地入津の商売船、乗人の員数を以て諸役先規より勤め来り候事に候得ども、第一念入るるべき処に、近年は別して麁(そ)略に罷成、大方は乗員数隠し候由相聞こえ候条、以来急度相心得、入津改相届け候様に仕るべく候。若し此上改め候砌(みぎり)、私を以て構候族これあるにおいては早速申し達すべき事。
一 前々より他国え免さざる法度物、弥堅く積出させ申す間敷事。
一 入込の旅人、水揚帳面懈怠なく記し置くべき事。
一 僧医男女惣て不審なる者乗来り候はば申し達すべき事。
  津出人数改の儀右に准ずべき事。
一 入津の船頭、水主、宗旨寺判銘々持参来り候様に申付け置くべき事。
一 船宿の儀は船頭心得さすべき事。
一 出帆の船乗人に応ぜず飯料米積出候はば津出相免す間敷事。
一 入津船見掛次第船宿より申届、待ち合わず早々相改むべき事。
一 前浜澗出の外、他所より出帆停止に候。其内春中粒鯡(生鰊)積出候船、勝手により直に出帆いたし度き旨相願候はば、改役相済候上出帆申付くべき事。
右之条々堅く相守るべきもの也
      享保二十卯二月廿日          御判        (『箱館問屋儀定帳』)

 
 このようにこの時限では、箱館港においても沖ノ口業務が正式に執行されるようになり、その取締を強化していることは、その背景として箱館にも交易船の出入が、いよいよ多くなっていることを物語るものである。