日持上人の渡来説

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 永仁4(1296)年、日蓮の高弟6僧の1人である日持上人が、津軽石崎を経て渡来したという説は前にも述べた。その遺跡として伝えられるのは、石崎妙応寺函館山鶏冠石(夜泣石、題目石ともいう)などがあるが、史実か信仰伝説か諸説があって、いずれも日持の来道を証明する証拠を欠いている。しかし『新北海道史』によれば「昭和八年、中国チヤハル省宣化城の立化寺から、元の大徳元(一二九七)年から八(一三〇四)年にかけてここに住んだ、立化祖師という高僧の遺品が発見され、それは日持のものであることがほぼ確実だと思われるから、日持の異域渡航は事実であり、とすれば日持が奥羽、蝦夷地を経たという説も根拠がないことではなく、数年間滞在したこともありうることなのである。」とあって、日持の渡来を若干肯定している。
 石崎妙応寺は明治12(1879)年の寺号公称で、それ以前は経石庵といったが、同寺には寛保2(1742)年の経石塚碑(松前法華寺の僧建立)より以前を知る史料がなく、鶏冠石もまた、日持の墨跡を文化13(1816)年に刻字したというもので、永仁4年の渡来とはあまりにも隔りすぎる。また、日持はここから中国大陸に渡り、彼の地に没したと伝えられるが、同寺のもう1基の経石塚碑(文化14年建立、安積信撰文)では、漢土よりここに来たとしているのにも矛盾がある。
 いずれにしても、江戸中期に日持渡来説が流布され、信じられていたのは事実である。

日持上人経塚


鶏冠石(実行寺裏山)