衣食住

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 享和元(1801)年の『東夷周覧』によれば「諸国より商船出入し、諸国の産物坐(いな)がらにして是を得」とあって、江戸中期のこの時代でも衣食住の大方は、本土からの供給によって支えられていた。

女子風俗図 「蝦夷島奇観」より

 服装については、もしも貞治の碑がこの地で製作されたものとすれば、これに線刻されている男女像は、往時の服装を知る貴重な資料となるであろう。また寛政年間の『蝦夷島奇観』には、農耕をする女人の絵があって、「女子畑を作り粟、稗、蕎麦、大豆など作りて食糧とす」とあるが、この絵の働く女の姿は貴重である。近年まで「亀田帽子」と称された、風呂敷を三角にしてかぶる習わしは、すでにこの時代にもあって描かれ、衣服はツヅレとかドンザとかいう筒袖の仕事着で、これは多分にアイヌのアツシと手法が類似し、事実袖口や襟などに、アイヌ模様を刺繍したものもある。更に同書には、和服にアイヌ模様をふちどりにした前掛けをつけ、足駄をはく女人の姿絵があって、それには「女子は市中村里とも髪長くして美麗細腰なる者多し。夷地にて前垂布に文繍させて常に用ゆ、染師なき故に白木綿の服を着すなり。婦人になると云とも眉をそらず」と説明し、その傍に、きぬた(布をやわらかくつや出しするため、石台の上で木槌で叩く)をする女を描いている。これがまたアツシらしいものを着ている。このように衣料においては多分にアイヌ文化の影響を受けている。
 食糧については、元文2(1737)年に来道した坂倉源次郎が著わした『北海随筆』には、「米は津軽、秋田、酒田、越後、加賀、能登より廻し、御領主は酒田御廻米の内にて四千五百俵買請、米にて時の相場を以て代金上納也。其外は船入運上米有り、商人より百姓へ仕送り米あり、米生ぜざる所ゆえ、却て諸方より米入船沢山にて、下賎者とても麦を食わず、かてを食う事を知らず」云々とあり、『津軽見聞記』(宝暦8年著)にも「津軽の商人より松前へ米送り、例年凡そ四万俵許」と見られ、主食としての米には不自由はなかった。しかし飢饉の時に備え、藩では後に備米制度を設けた。
 副食としては魚類が豊富で、近海から鰊、鱈、鰯、鰤などがとれ、また亀田からは牛蒡、大根、瓜、茄子なども相応にとれ、大豆、小豆、粟なども生産された。
 住居については、『蝦夷島奇観』の絵によれば、土蔵や白壁の家らしいものも見られるが、その多くの家屋は屋根にたくさんの石を上げている。この屋根に石を上げておく葺(ふき)方は、幕末から明治時代にかけても行われ、外国人の記録にしばしば見られる。