寛政期の箱館の図 「蝦夷島奇観」より
蝦夷地経営にあたっては、蝦地夷御用掛五有司の熟議の結果、次のような方針をもって臨むことになった。
蝦夷土人はいまだ人倫の道も知らず、男は髪を乱し、女は口および手に黥(いれずみ)をなし、木皮衣(アツシ)を左衽に着し縄を帯にしめ、小児は多く裸体、稀に犬皮を着るものがあるに過ぎない。魚獣を食し、茅屋に住み、文字も知らず、暦日もなく、医薬などはもちろんなく、病人はわずかに草根を煎じて服するだけで、一度疫病が流行すれば死亡するものが極めて多い。父兄親族が死ねば哭泣し、地を掘ってこれを埋め、住家を焼き祭祀なども営まず、その天性は至って愚直である。しかるに松前家は弱少であって広大な蝦夷地を制御することが出来ないので、場所をわけて商人に托し運上金を徴収するだけであるから、商人は争って姦利を貧り、桝目を掠め秤目を偽り、あるいは粗悪品を渡すなど、不正のことを行うため蝦夷は日増に凋弊し、みな松前の枇政を恨んでいる。
ところが一方ロシア人がその領土を拡げる方法をみると、常に懐柔につとめ、これによってすでに数多の国を併合してきたが、蝦夷が松前を恨んでいるよしを聞き、しだいにわが属島20を蚕食し、なお船を東蝦夷地にまで送ってその機をうかがっている。よってその警衛を命じられたのであるが、蝦夷地は四面海をめぐらし、土地もまた広大であるから、城砦を築いて守ることは出来ない。ためにただ憮恤を施し、仁政を布き、彼らが一致同心、恩徳を感じ、外人の扇動に乗らないように教導するほかはない。
蝦夷との関係で最も大事な交易については、従来の交易法にもとづいて、官吏をおいて正当にこれを行い、道路を開き5里に1屋、10里に1舎を設けて、平常はここで交易を行い、旅客のある時は宿舎にあてるようにし、また漁具を備え、これを夷人に貸して漁業を行わせ、勤勉で多額の産物を出すものはこれを賞するようにする。
更に松前藩では夷人に簑(みの)・笠・草鞋(わらじ)の使用を許さなかったが、これらの禁止を解き、極貧者には衣類、住居の手当をし、病人があるときは官医をもって治療させ、和語を用い文字を教え、風俗を改めることを望む者にはこれを許し、和人の衣服を与え、時宜によっては家屋をも給与して耕作の道を教えたならば、100年の後には蝦夷はことごとく内地人と等しくなるであろう。
なお、外寇に対する防備については、南部・津軽の両藩に命じて要地に駐屯させ、得撫(うるっぷ)島はすでにロシア人が占拠しているから、択捉島はことに警戒を厳重にして夷人を懐柔する必要がある。
大要以上のような骨子の成案を得て上司に提出した結果、これが採択され、ここに蝦夷地経営の大本が決定をみたのである。かくて同年2月、寄合村上三郎右衛門常福、西丸小姓組遠山金四郎景晋、西丸書院番組長坂忠七郎高景の3名もまた蝦夷地掛に命じられた。そして石川忠房および羽太正義は江戸にあって事に当り、松平忠明以下は2月から3月までに江戸を出発して箱館に至り、それぞれ部署を定めて蝦夷地に入り、従来の運上屋を会所と改めて所々に医師を配し、道路を開き、牛馬を送って交通運輸の便に供するなど大いに施設するところがあった。この冬、忠明らは江戸に帰っている。