開墾事業

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 蝦夷地御用掛の有司は、箱館近郊の開墾事業にも意を用い、寛政12年以来、水田その他種々の農作を試みている。その収穫も相応にあったので、箱館奉行は将来の見込み充分ありとして、文化元年土地を選定し開墾の事を幕府に伺いを立てたところ、8月許可の指令に接した。そこで調役山田鯉兵衛、下役村上次郎右衛門、石坂武兵衛、在住勤方代島剛平を掛りとし、その外用達、用聞にも命じ、諸国のうち農民過剰の所から希望者を雇い入れ、移住させ、小屋をつくり、農具などを与えて、文化2年から開墾に着手した。その結果、この年1か年に成功したところは、新田で庚申塚(現大野町本郷)90町歩、文月(現大野町内)50町歩、畑は濁(にごり)川(現上磯町内)15町歩、庚申塚3町5反歩、文月1町5反歩に達する開発をみた。しかしながらその費用はすこぶる多額にのぼったので、評議の上、官船の収益をもってこれに当てることにした。なお、何人でも開墾を企てる者があれば土地を割渡してこれを奨励したので、同3年、4年にも引続き開拓に当たる者が多く、従って新たに村落を形成して地方の繁栄に加え、箱館の発達を助長する要因をなした。いま当時の新開の村落を挙げれば次の通りである。
 
本郷 前記庚申塚の地で白川栄右衛門なる者が頭取で、白川郷ともいい、鍬頭は越後から来た内田藤兵衛という。
千葉郷 いまの大野町市渡の内で、千葉久治なる者が頭取で開墾し、寺院なども建立した。
千代田郷 いまの大野町の内で、河村新左衛門が頭取で開き、その資本は出羽国酒田(山形県)の富豪本間正五郎が支出した。
一本木郷 前記千代田郷に接続し、島津才兵衛なる者が頭取で開拓した。のちに一本木と千代田が連合して小学校を設け島河小学校と称したが、これは島津、河村の両頭取の姓をとったものであるという。
中ノ郷 いまの上磯町内で、盛岡の百姓源兵衛(あるいは源五郎ともいわれる)が頭取で開墾した。
藤山郷 いまの七飯町地内で、藤山善右衛門が開墾したという。
伊達郷 旧七飯村と藤山郷の間にあり、伊達林右衛門が資本を投じて開拓したものである。
この外、文月、大野、上山などの地内でも開墾されたが、郷名が付けられない所も数か所あったといわれている。

 

農耕の図 「蝦夷島奇観」より

 右のように一時は非常な意気込みで開墾され、ことに従来絶望といわれていた水田に力を入れたが、ただ惜しいことには経費が多額に上るので、文化5年以後新墾を中止したばかりか、水田はその後凶作などに遭ったため、あるいは廃止し、あるいは稗などを作り、開墾の業はしだいに振わなくなった。しかし今日函館市の近郊農村として栄える礎石は、この時代に置かれたとみられる。