一方開墾に次いで、みるべきものに植樹がある。松前藩時代においては檜(ひのき)山および山師(伐木業者)の伐木に関するものの外、山林についての制度がなく、ただ住民の自由にまかせていたため、箱館付近の山々ははなはだしく荒廃していた。そこで蝦夷地掛りの有司は、享和元(1801)年伐木について取締を行うとともに、苗圃を造って植樹を奨励した。しかし旧幣に慣れた人びとは進んで植樹をする者がなく、その成績にはみるべきものがなかった。ところがここに特記すべきことは、七重に卯之助なる者があり、箱館山および七重に植樹をした事蹟である。
箱館山に卯之助が植樹したのは文化年間で、樹種は杉および松の2種類で、箱館役所(旧渡島支庁の所)の後ろ一帯の地に約2万本の杉と、それからやや南にあたる船魂大明神(いまの船魂神社)の所に松2000本を植樹し、また七重には杉を主とし、その外数種の苗木を植えたという。この樹木はいずれも生育し、ついに欝蒼たる森林をなし本道植樹の模範となったが、その後多くは伐採され、あるいは火災などによって減少し、今では函館山の杉と七飯の森林の若干を残すばかりになった。箱館山の松は明治の初めにはまだその幾分をとどめていたが、徳川脱走の徒がことごとくこれを切って、五稜郭の入口の柵などに使用したという。
この箱館山の植樹について、それが官業であったか民業であったか注意する人もなかったが、明治維新後になって卯之助の子孫が、文化5年卯之助が出願して植栽し、同7年8月植付済になったもので、成木の後、その半数は卯之助の所有である旨の指令を受けているとし、以来数回にわたりその立木の分配を請願した。しかしその確証とするものがないためその都度却下されていたが、その後、これを証明する証書を発見したので、ついに内務大臣を相手どり、行政裁判所に公訴した。その証書は次のものである。
この書類については鑑定者の意見は一致しなかったが、裁判所はその命じた鑑定人の鑑定により、これが正当なものと認定し、明治35年6月訴訟は原告の勝利に帰した。