福山に拘禁されてからは、しばしば松前奉行荒尾成章自ら尋問を行った。尋問の要旨は、先年ロシア人の樺太、択捉などへの来襲はロシア政府の命令によったものかどうか、ゴロウニンの来航もこれと関係がないかどうかにあった。これに対しゴロウニンは、フォストフらの行動は、ただ彼らの利益のために行ったもので、決してロシア政府の関知するところではないと弁明した。しかし、何分にもロシア語をアイヌ語に、アイヌ語を更に日本語に翻訳して通弁するのであるから、意思疎通は困難なものであったが、ともかく奉行はゴロウニンの弁明を了解し、文化9年春から待遇を寛大にするとともに、幕府に対し捕虜の釈放を願い出たのである。しかるに幕府はこれを許さないばかりか、なおロシア船が蝦夷地に来るならば容赦なくこれを打ち払えと命じた。ところがこのことがゴロウニンらの耳に入ると大いに失望し、3月25日未明ゴロウニンをはじめ6名(ムール、アレキセイを除く)が脱獄を企て、6晩海岸、山中をさまよった末、ついに4月4日木ノ子村(現上ノ国町)で再び捕えられた。