鮪漁業と漁法の開発

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 この時代に特記されることは鮪漁業の勃興である。この鮪漁業については、南部の田代寛左衛門田鎖丹蔵が来道して、その漁獲方法をこの地方の漁民に伝えたといい、また明治25年北海道庁発行の『北海道水産予察調査報告』には、「田鎖某が嘉永年間、亀田郡日浦及び内浦湾尾札部に於て大謀網を建てたるを以て始めとす」とあるが、更に一方、臼尻村の「小川幸吉事蹟」によると、天保年間中同村の有志が意を漁業の発達に注ぎ、群游する鮪の漁獲を、幸吉および尾札部村の飯田与五左衛門に勧説したので、幸吉は官の斡旋を請い、田鎖丹蔵を南部の宮古から招き、天保10(1839)年はじめて大謀網を居村臼尻の弁天沖合に試みたが、潮流の探究、建網の建設などに未熟だったために、初期の目的を収めることができず、与五衛門ともども中止した。しかしその後、幸吉の長子幸松がいろいろ改良研究の結果、同13年再び試み、ついに父の志を達成したというのが真実らしく、もちろん漁獲量その他については不明であるが、これがこの近海における鮪漁の始まりであり、また本道における大謀網の創始であろう。当初大謀網はもっぱら鮪漁に使用されたが、嘉永年間に入るとこれは鮭漁にも応用され、茅部沿岸の鮭漁は、ことごとくこの網を用いるようになったと伝えられる。
 このほか日尻には献上新鱈製造場というのがあり、これは当時根室場所の西別にあった献上鮭製造場と同性質のもので、その製造には丁重を極め、製品は船に積んで江戸に直航するのを恒例とした。この創始は明らかでないが幕府直轄以来の事と信じられている。
 箱館近郊の住民は、前記のように魚介・海藻を獲って生活するものが多かった。もちろん来游する魚族にはおのずから厚薄もあり、また濫獲などもあって、年によっては産額の増減はあったが、しかし一方には新しい漁業や漁法の開発もり、あるいは漁労人口の増加などもあってその生産量を維持し、箱館に出荷して本州方面の需要地に移出された。